昨日、観光案内所の写真を貼り付け忘れたので最初に。
元は魚屋だったという。
千住三丁目から北、四丁目、五丁目は「宿場通り」の上に
サンロードの名が付く。その角が「千住ほんちょう公園」。
復元された千住宿門脇の板張りの口碑は掠れて読みにくい。
千住宿の終盤には古い家が残る。まずは横山家。
江戸に近い千住に多かった、今でいう再生紙「地漉紙
(ジズキガミ)」を扱う問屋の一つである。
観光案内所では「浅草紙(浅草海苔みたいだから)、
いわゆる『落とし紙』のこと」と説明してくれた。
その向かいが「絵馬屋」で、今も八代目「東斎」が手書き
の絵馬を描いていると言う。またダジャレを書いた地口行燈や
凧絵も描き「際物問屋」とも呼ばれていたらしい。
道の正面に荒川の高い土手が見えると長かった千住宿も
終わり、下妻街道との分岐点である。
下妻街道に少し入った右手が「名倉医院」、江戸時代から
の骨接ぎの名医で、「どぶ板で名倉レましたと駕籠で来る」
という川柳があるほど。大正時代には一日630人も来診した
と言う記録が残る。
今は駐車場は、当時あちこちから来た大八車の溜まり場
だったと口碑にある。今も八代目が整形外科医として活躍
しているが、訪れたこの日、木曜日は休診日。
門の中のレトロな雰囲気を観光パンフレットから。
さて、草加へ急がないといけない時間だが、道草ついで
にもう一ヶ所寄りたいところ、少し戻った交差点から東へ
向かう道が水戸街道のスタート地点である。
今春、水戸街道を歩き始めたころはコロナ禍の全盛で、
賑やかな北千住への突入は憚られ、荒川対岸の小菅から
歩き始めた。頃を見て・・・、の「頃」が今日である。
昔の街道らしい、少し細めの道である。
JR常磐線とつくばエクスプレスの高架を潜り、次の
東武線の高架脇に清亮寺がある。「槍かけの松」が有名な
寺で是非来たかったところでもある。
山門を入ったところにその口碑がある。松自体は敗戦の
昭和20年ころに枯れてしまったというが写真が残る。
下に清亮寺と彫られた寺塔と山門の位置関係がおかしい
と思ったら、口碑には当時の寺塔は今と直角方向の西向き
だったと書かれる。松が水戸街道に張り出し、納得である。
水戸光圀一行がここに差し掛かり休憩となった。槍持ち
は道中決して槍を寝かせてはいけない。光圀は「そこの松
に立てかけて休憩し、出発の時に反対側から取ればいい」
と気をきかせたというのが「槍かけの松」の由来である。
本堂前の休憩用の東屋に灰皿があるので私も一服休憩。
昼も近いので墓地やお堂、その奥を通過する電車を眺めて、
例によって昆布おにぎりとワンカップの「チェアリング」
昼飯となる。
すぐ脇の東武線を潜り200メートルほど先の荒川の土手に
上る。正面には小菅の東京拘置所。死刑囚も含め3000人が
拘置される。
荒川は大正から昭和の初めに掘られた人工の川なので、
水戸街道がどう通っていたかは今では不明。対岸の街道の
続きの位置からみて、凡そこの方向に向かったのであろう。
正面の小菅拘置所は以前も牢獄や銭座であったから迂回
したのかも知れない。
左手には常磐線、つくばエクスプレス、東武線の三つの
鉄橋がかたまり、右手は「三年B組金八先生」のロケ地の
荒川右岸の土手が続く。その対岸は首都高小菅JCである。
1時間のつもりが3時間にもなった千住宿からいよいよ
荒川を渡り草加に向かう。続きは次回。