台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

772 ブログ772 もう、5、6年前にラブレターを

2013-10-13 20:51:18 | 台湾
私の初恋の人に。ラブレターを彼女の誕生日に渡しました。
この文字数は、10万、一万字かな・・・・。
中学一年生時からの思いを全部書きました。
パソコンの入れて・・・。当時は、どういう訳か、フロッピー。3点5インチのデスクです。今そんなものは、ありません。
 USBもなにもありません。けど、今すぐにそのラブレターを書けと言えば書くことができます。なぜ?
それは、私の記憶をたどればクイズのように思い出せます。
自分の身体をくぐったことは、いつまでもいつまでも覚えています。
もちろん。内容は、ミミ。秘密です。
 不思議です。一ヶ月ぐらいで、それを書くことができました。
毎日毎日。パソコンに向かい、・・・・。
当然。ダンレン。太太には、疑われました。
何しているの?
何をしているの?
何で、USBに鍵を掛けるの?
それは、太太には、見られたくないから。
誰でもある青春時代の想い出。
 君に届けと。何度も何度も空を。星を見てお願いしました。
けど。その思いは・・・・。当時は、叶いませんでした。
 それで良いのです。
だから。現在の幸せがある。
 私は、いつも思うのです。一生懸命に生きれば、誠実に生きれば、真面目に生きれば・・、思いは、届く・・・・。そんなこと無いのです。自分の意志をきちんと伝えないと
伝わらないものです。
 あなたと彼女は、他人。いくら好きでも・・・。目と目とが合えば通じるのは、愛し合ってからです。だから、いくらあなたが背伸びしても・・・。届かない。
通じない、そのもどかしさが青春です。もちろん、今とは、違うかもしれません。
現在は、連絡手段たくさんあるから・・・。メール、携帯。パソコン。チャット。フエイスブック。さまざま。けど、自体遅れの私は、そう言う手段を余り知りません。まして、
昭和51<52>年の頃は、そんな便利なもの無いから・・・・。
 恥ずかしがり屋の私としては、彼女の誕生日に、自分の思いをぶつけたかっただけです。それだけです。もちろん。そのパーティにでて、太太には、こっぴどく叱られました。だって。パーティは、東京の品川。私の住んでいるところは、田舎。
 だから。朝帰りして、学校へ行きました。一睡もせず・・・・。
けど、全然眠くありませんでした。とても爽やかパーティだった。俺の心も。
 みんな全然変っていなかった。もちろん、彼女も。それだけで嬉しかった。
青春時代に恋した人が・・・、変に変っているの!!?    少し嫌。
 彼女の笑顔。微笑。ウエイシャオ。昔と同じでした。
そんな。昔のことを思い出す治郎の一日でした。
再見。

771 ブログ771  最近の世の中は、どうして・・・・。

2013-10-13 04:48:59 | 台湾
日本の社会の覆っているなんとも黒い影は、・・・・。
雇用不安。ホームレス。引きこもり。老人の孤独死。・・・・。
何でこんな社会に成ったのか。
 それは、競争社会だからです。資本主義。金のためなら、何でもやる社会になっている。そんなにお金が大切でしょうか?
わたしは、そうは思いません。最低限の食べるものと、心を満たす何かがあれば、人は。
結構幸せだと思うのです。
 つい最近書きました。幸せは、多様であると・・・。一色ではない。
何色もなんしょくもある。
 色というのは。無限だとは、思いませんが・・・・。
それ以上に人間の生き方は、たくさんあります。
 その生き方が平成に入ってか、昭和60年代に入って・・・・。
経済現象もあると思いますが・・・・。それよりみんなおびえたような社会が生まれてしまいました。他人に負けてはいけない。まけたらお仕舞。
 ・・・・結婚も安心してできない社会に・・・。これじゃまるで江戸時代に戻ってしまったような・・・。自由が無くなり、不安におびえる社会。

 おかしいよ。何かがおかしい。
誰かが綾って居るような社会構造。資本家・政治家・・・・。
誰が、社会を綾って居るのか。
 それは、社会不安がそうさせているのです。
不安におびえると・・・。中々幸せには。
やせ我慢の笑顔には、成れますが、本当の「微笑み」には、成れません。
中宮寺の弥勒菩薩のような笑顔には、・・・・・。
仏教が伝わり1600年近く経つのに・・・・。
 宗教のことを言っているのではなく 、現代人の幸せについて、言っているのです。
为什麻 なぜ?
なぜ?
なぜ?

これを追求すると。つい宗教話のようになってしまいます。
そう言うつもりは、毛頭ありません。
 わたしは、宗教団体には、入らない。
再見。

770 ブログ770 亡くなられたひとへ

2013-10-13 04:23:26 | 台湾
わたしは、61年間でたくさんの人の死に出会った。たくさんいます。
人生は、生きて居た長さではありません。例え十五年の命だとしても、それは、それは。
たくさん意味があることです。15×365日=5475分の想い出一杯詰まっています。
その一日。一日が長さが違うだけです。蝉の寿命は、七日間と言われています。
何年も何年も地下に戻り、生まれる日を楽しみに生きて、鳴いています。
 生きて居る長さが意味あるのではなく、その日その日をいかに充実したものにしたか。
それが大切です。
 わたしは、半年に一回。葬式をしたときがありました。
もちろん。その前にもたくさんの人の死に出会いました。
おばあちゃん。おじいちゃん。 教え子。 母親。 息子。 親父。 同僚。
いろんな死があります。

 なんと言っても、親より早く死んだ人のことは、忘れません。
忘れてはいけないのです。

最近気づいたのです。亡くなられた人の笑顔をどれだけ記憶しているか?
それが大切であると。
 笑顔は、幸せの象徴です。
私は、37年も妻と居るのは、その笑顔が忘れられないからです。
この人だけは、幸せにする務めがあります。
それは、当然です。
わたしは、男。子供を産むことは、できません。子供を産むと言うことは、どういう事でしょうか。それは、その子に責任を持つと言うことです。もちろん、生んでくれた彼女にも・・・。
 男と女は、生理が違います。男は、辛い時、酒を飲んだり、ギャンブルに逃げることができます。女の人は、ただこのつらいことが嵐のように通り過ぎるのを待つだけです。
待つことは、つらいです。なぜなら、先が見えないから。
人間先が見えないことは、とても不安です。
灯りが欲しいのです。希望が・・・。その時一緒に苦しんでくれる旦那がいれば、苦しみは、半減します。4分の1になるかもしれません。

 先になくなった人は、それなりの意味があるのです。
その意味をわかること+悟ことができた時、まだ別の人生を歩むことができます。
それは、なくられた人に恥じない生き方をすると言うことです。
神様・仏様・亡くなられた方。
いつでもみんな見ています。その後の生き方を。
治郎がどう生きて居るか。彼女が幸せであるか。
亡くなった息子が見ている。
 そういつでもどこでも。
亡くなると言うことは、そう言うことです。
だから。私は、私の教え子や亡くなった母親・親父・息子に恥じない生き方をしなくては、成らない。
 生きる意味を・・・・・・・・・・・・・。
 最近掴めました。
再見。