これは中学生の時に言われた言葉です。私の家族は母親と兄が創価学会に入会し、その後生まれた私は「福子(ふくし)」と呼ばれました。この福子には大抵入会動機なんてありません。気が付いたら自宅にはお厨子があり、日蓮の文字曼荼羅がありました。
母親と兄には信仰体験がありましたが、学生時代までの私にはそんなものは全くありませんでした。しかし社会人になり、創価学会の青年部になってから、活動を始めたときには、実に幾つかの信仰体験を持つ事か出来ましたし、だから冒頭にある言葉は真実なんだと信じもしたのです。
しかしその後、年齢を経るごとに創価学会の組織の中を見ると、皆が「現世ご利益」を求めていたり、また組織信仰に陥っていったり、そんな中で家庭不和になる人、病気になる人、はては年取る毎に人格に破綻の綻びが見える人が、特に活動家と言われる人達や、幹部と言われる人達の中に増えていってました。
私が創価学会の活動家を止めたのも、組織から距離を置いたのも、根本にはそういう事が関係しています。そして何故そうなったのか、何が問題なのかを自分なりに掘り進めたところ、私はこの「信仰体験に偏重する組織文化」に原因がある事、またそれを煽るような指導者たちの指導や、それを生み出す組織の思想性に問題があると結論を出しました。
日蓮は語ります。
「通力をもて智者愚者をばしるべからざるか、唯仏の遺言の如く一向に権教を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は権教に宿習ありて実経に入らざらん者は或は魔にたぼらかされて通を現ずるか、但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。」
(唱法華題目抄)
信仰体験とは、傍から聞くととても不可思議なものです。本当にそんな事が起きるのかという事が起きたり、思わず本人が考えた通りになったり。等など。まさに不可思議な力が、その宗教にはあるのか、という説得力を出すにはもってこいです。
創価学会では「折伏セミナー」とかでもそうですし、大きな会合には必ずと言っていいほど、信仰体験の発表があります。そしてドヤ顔で言うわけです。
「自分たちの信仰は正しく力がある!だからこんな体験なんて、沢山あるんだ!」
しかしそんな創価学会は「自分たちの教えは日蓮仏法だ」と言います。しかしその日蓮は、先に上げたように「利根や通力(不可思議な話や体験)に拠るな!」と警鐘を鳴らしています。要はどんなに不可思議な事を、その信者がやろうと、それだけでは、そんな人間が語ることは真実ではない。真実は法門(教えの本義)によって決めるべきなのだ、そう語っているのです。
ましてや今の創価学会の教義の無惨なる様は、語るべくもありません。日蓮は法門をもってと言うのに、その信徒が法門を蔑ろにするだけではなく、利根や通力により正しさを語っている。
これが自己矛盾でなくて何でありましょうや。
皆が理解しなければならない事。これは何も信仰者だけではなく、ある意味で全ての人達です。それは。
「人には願望を現出させる力と可能性を本来、備えている!」
この事です。
私は以前に営業職をやっていた事がありますが、そこで多くの中小企業の社長と合っていました。そしてそこで知った事は、波に乗っている経営者はどこか宗教からんだ考え方を持っているということです。具体的にどんな事かと言うと、自分の仕事で儲かる事を、とことん信じ切っているという事です。そしてそんな社長の中には、実際に多くの利益を上げたり、顧客層を拡大したりする人がとても多かった。
要は「自分のやる事を信じ切る」という事で、人は周囲にそんな事を引き寄せる能力を持っているのです。
だから最近よく言うではありませんか、引き寄せの法則という言葉。これは当にその事を指しているんでしょう。
この引き寄せの法則に類似した言葉は、当然の事、仏教の中にもあります。それは華厳経の「心如工画師(心は工なる画師の如し)」という言葉です。
これは人は周囲の環境を、心が作り出すという事で、それはまるで巧みな画家の様なのであるという言葉です。
要は結論として何を言いたいかと癒えば、信仰体験などに振り回され、執着し、あたかもそれを可能にした宗教こそが絶対に正しいなんて信じてはいけないのです。宗教とは、先のも書きましたが人間にとって、最大の脆弱性なのです。
そんな事に振り回されては、結果として宗教組織に利用されて、一生棒に振ってしまいます。
宗教とは心を知るためのもの。そして心を理解すれば、人生はもっと有意義に生きていける。その為の学ぶ機会でもあるのです。けして信仰体験とか、不可思議な力(法力)何かに絆されてはなりません。