自燈明・法燈明の考察

本尊開眼という事について①

 沖縄に台風9号が接近し、その影響により沖縄は大変な事になっていないか心配しています。聞く処によれば太平洋には熱帯低気圧があり、それが今後発達し猛烈な勢力の台風10号となって本州に接近するという話がありました。

 昨年には千葉県などで台風により大きな被害を受けたのは記憶に新しい事ですが、また似たような被害に遭わなければ良いなと心配しています。この熱帯低気圧についても気になる処です。

 台風が来るという事は、いよいよ秋になってきたと言う事なのでしょうが、近年では台風の被害も馬鹿になりません。今後は台風情報にも十分に気を付けていきたいと思います。

 さて、今朝方にツイッターで「本尊開眼」の事について質問を受けました。私は日蓮の文字曼荼羅に力があるのではなく、文字曼荼羅に祈る事で様々な体験をするとしても、それはつまるところ祈る主体である人に内在している力が、日蓮の文字曼荼羅を機縁としで顕現したに過ぎないと理解しています。



「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず蘇法なり、蘇法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。」(一生成仏抄)

 ここで「己心の外に法あり」とある様に、仏教とは全て人の心(一念)により事象が発生すると説いています。またそれが故に「内道」とも呼ばれているのです。だから文字曼荼羅に祈って体験する事も、詮ずるところ、自分自身の一念の中から起きる事であって、そこに「紙幅」や「板」の文字曼荼羅という物に力があるというには大きな錯覚なのです。

 この人の心の中にある事なので、例えばキリスト教でもイスラム教であっても「奇跡体験」という信仰体験があるわけであり、顕正会や、果てはオウム真理教においても信仰体験というのは存在する訳です。

 この様に考える事が、理に叶っていると私は考えているのです。

 しかしこと日蓮の文字曼荼羅について言えば、創価学会の中にも居ますが、日蓮正宗の信徒の方々の中では文字曼荼羅に「仏の魂」があって、その力用で人の仏界が湧現するという事を述べています。そしてその依処として、日蓮の御書の中の「木絵二像開眼之事」を用いて主張してきます。

「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ鬼をば奪命者といふ魔入つて功徳をうばふ魔をば奪功徳者といふ、鬼をあがむるゆへに今生には国をほろぼす魔をたとむゆへに後生には無間獄に堕す」

 この部分について、日蓮正宗や法華講が解釈するには「法華を心得たる人」とは血脈付法の御法主猊下であり、その人が開眼しない本尊には鬼神が入ると言い、創価学会の本尊はこの鬼神の入った本尊だから「奪功徳者」になるという理屈なのです。

 だから日蓮の文字曼荼羅には、必ず「開眼供養」が必要であるというのが、彼らの主張という事です。創価学会の授与する文字曼荼羅を、宗門関係者が「偽本尊」と呼ぶのもこの主張によるものとなっています。

 しかし仏教とはあくまでも「内道」であり、己心の外に法がある。要は人の幸不幸の要因が己心の外にあるというのであれば、それはそもそも仏教の大原則に違ってしまいます。そしてこの事は、日蓮自身が三十四歳の時に述べた一生成仏抄の内容とは、大きな矛盾を生じてしまいます。

 日蓮の正統後継教団を自称する日蓮正宗の主張によれば、宗祖の日蓮の言葉を否定してしまう。宗祖の言葉を元にすれば、宗門は宗祖と異なり正統後継教団とは言えない。でも彼らは自分達こそ日蓮の正統教団だと主張して述べている。

 どちらが真意なのか。その為には「木絵二像開眼之事」を読み直してみる必要があると思いますので、今回は幾つかに分けてこの御書について振り返りをしてみたいと思います。

 創価学会もそうですが、日蓮正宗に於いても「切り文」と言って、御書の一部分を取り出して、それを解釈する事で、本意を捻じ曲げてしまうという事はよくやる手法です。

 日蓮の御書とは背景と大意、そして対告衆(差出先など)を考えてみないと、実は真意が理解できないモノが多々あります。例えば義浄房御書では「生身の虚空蔵菩薩」という記述がありますが、虚空蔵菩薩とは真言宗の菩薩であり、「真言亡国」という日蓮の主張との整合性について過去から議論になっていました。ただし善無畏三蔵抄には「此の諸経諸論諸宗の失を弁うる事は虚空蔵菩薩の御利生本師道善御房の御恩なるべし」とある様に、虚空蔵菩薩とは師匠の道善房を暗喩した表現である事が最近になり判明しています。当時、日蓮が安房小湊に書状を遣わす際に、道善房と直に指名した場合、師匠の道善房の立場を危うくする状況にあった事から、この様な暗喩を使っているという事の様です。

 また創価学会では「仏法は勝負」という部分だけを切る取って、如何にも仏法の重要な事は「勝利する事だ」と言い、勝負事(特に選挙など)では、どの様な手段であっても勝つ事に拘っていますが、この言葉のある「四条金吾殿御返事」を読み進むと「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」とある様に、勝負というのは「道理は勝つ」という意味あいである事が解ります。

 「信仰は研究ではない」という言葉がありますが、「教学」とは「教えを学ぶ事」であり、学ぶというのは、様々な文献の真意を探るべく思索する事が含まれるのは当然であり、そういう事で言えば信仰者とは「思索する人」であるべきなのです。思索や学ぶ事を「研究」と言い、バッサリと切り捨ててしまう事は、実は人類史の宗教史の中で、過去に宗教貴族の暴走を許し、人々が宗教貴族に好きに操られてしまったという事実への認識が不足しています。

 まあ好きに操られ、人生を宗教貴族たちに捧げたいのであれば、それも「信仰のかたち」の一つなので、無理強いするつもりはありません。そこの判断は「信教の自由」の範疇なので、私はそこまで踏み込むつもりもありません。

 次の記事から木絵二像開眼之事に基づき、日蓮の文字曼荼羅の開眼供養について考えていきたいと思います。

(続く)



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