自燈明・法燈明の考察

再考・十界論について①

 このブログを開設して1年以上経過しました。ここでは思いつくままに様々な事を書かせてもらっています。いずれはホームページに、ここで書き連ねた事をまとめていくつもりです。ただ範囲も広い事から容易にまとめる事は難しい感じがしています。

 さて、今回は十界論について私が最近考えている内容について少し書いていきます。「え?今更、十界論?」そんな事を思う人もいるかもしれませんが、お時間のある方はお付き合い下さい。

◆十界論とは何か
 これを言うと日蓮宗系や創価学会、顕正会などは教学の基本だという事で、地獄から仏界までを並べ立てて語る事でしょう。Soka-netではこの事について、以下の様に紹介しています。

「十界」とは、生命の状態、境涯を10種に分類したもので、仏法の生命観の基本となるものです。十界の法理を学ぶことによって、境涯を的確にとらえ、各人がそれぞれの境涯を変革していく指針を得ることができます。

 つまり創価学会では自身の「境涯」とやらを的確にとらえる生命観の基本となるものと教えているんですね。(果たしてそんなものなんですかね)




 この十界論とは天台教学の伝統を表した「仏祖統記」の五十巻に出てくるもので、人間の心の境地を分類したものです。この十界論と三世間(国土世間・衆生世間・五陰世間)、十如是を駆使して天台大師は「一念三千」という理論を構築しました。しかしこの一念三千も「摩訶止観」などの重要な論文には明確に示す事を天台大師はせずに、観念観法(観心)の手助けとして述べるにとどめていたと言います。このあたりについて日蓮は「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」の序盤で明確に語っています。
 良くこの「一念三千」については、十界✖十界✖三世間✖十如是という事で、まるで数学的な展開で語る人もいますが、それでは一念三千の本来の意義から外れるという事だと私は考えています。人はとかく数字で理論を表します。仏教で言えば「十二因縁」「四諦」「八正道」と言った言葉もそうです。それは数字を扱って表現したい事があるという事で、数字を使い、体系化した理論であり、定義をしたのは釈迦ではなく、釈迦の後世の弟子達なのです。「一念三千」も同様で、それを扱い表現したい本義があって、大事なのは数学的な展開では無いのです。

 これに近い話が、日蓮正宗などを中心に語られる「久遠元初・自受用報身如来 末法の御本仏 日蓮大聖人」というもので、法華経の如来寿量品第十六で明かされる「五百塵点劫」という、思惟も出来ない時間をも「まるで昨日の様な時間」と置き換え、それよりも更に久遠の昔に悟りを開いたのが日蓮大聖人だという理論です。
 法華経に於いて、すでに「無漏智」という最高の智慧を以ても推し量る事が出来ない、数字や譬喩でも表現が不可能であると言っているにも関わらず、日蓮正宗ではそれを時間軸の出来事だとして、「更に大昔」なんて言っているんですから、「久遠元初」という概念は、大乗仏教をあからさまに無視している理論と言っても良いでしょう。

 ちょっと話がずれてしまいましたので、戻します。
 十界論についても、単なる十の世界観(境地・境涯)という事ではなく、そこで表現されるものがあるはずなんですね。その事について少し思索をしてみたいと思います。

◆各界を考えてみる
 十界のそれぞれについて、少し振り返りの意味で「観心本尊抄」を元に考えてみます。

「瞋るは地獄貪るは餓鬼癡は畜生諂曲なるは修羅喜ぶは天平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し。」(如来滅後五五百歳始観心本尊抄から抜粋)

 ・瞋るは地獄 
 「瞋る」とは自分の心に反している事に、怒り恨む事を言います。よく「落ち込む」などを「地獄」だと言いますが、最悪の苦悩の状態を総称したものと考えても良いでしょう。

 ・貪るは餓鬼
 「貪る」というのは飢餓状態の心と言っても良く、これには肉体的・本能的な貪り(飢餓)から、物質的なもの、そして非物質的なものへの「貪り」があります。

 ・癡は畜生
 癡とは「愚か・浅はか」とも言えますが、目先の事でのみ動いてしまうという事を指します。思慮浅く、本能のままに振り回されてしまう状態を総称したものでしょう。

 ・諂曲なるは修羅
 「諂曲」とは己の気持ちをまげて、媚諂う事を言います。しかし一般的に修羅とは「怒り」とも言われていますが、この怒りの根底にあるのが、己の気持ちを曲げているという事だと思います。

 ・平かなるは人
 これは平静状態で物事の分別がつく、つまり思惟が可能となった状態であり、心が落ち着いている状態を指します。

 ・喜ぶは天
 「喜ぶ」とは歓喜とも言われ、うれしくて上機嫌な状態です。「有頂天」という事を日常会話でも使いますが、そういった心が躍動した状態です。これ等は「欲界(心や体の欲)」「色界(物質的)」「無色界(非物質的)」といった欲求が充足される事により起きる心と言っても良いでしょう。

 日蓮は十界のうちでこの六界以外の状態について「四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し。」と述べていて、六界は眼前に感情の動きとして現れる事だが、それ以外のものは、そういった類のものではないと分別をしています。

 よく「六道輪廻」という言葉を使う事がありますが、この言葉は輪廻転生の中で、こういった世界に繰り替えし生まれて来てしまうという事で使われています。しかし六道(地獄~天界)とは、ある意味で感情の世界とも言えるの事で、そこから考えてみると、正確にはこの言葉が指し示す意味は、私達が日常生活の中で、常に己の感情に振り回される心によって、ひたすら苦悩の中の人生を生きている事を指す言葉である。その様に捉える事も出来るのではないでしょうか。

 ちょっと長くなりましたので次回に続けます。
(続く)




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