十界論とは良く考えられたもので、やはり天台宗の教学とはそれなりに人の心への造詣が深いものだと感心します。創価学会や日蓮正宗では、天台宗を他宗とか邪宗なんて考えている人も居るようですが、そもそも日蓮教学の基礎は天台宗の教学です。そこをまずは認識する必要があると思いますし、そうなれば仏教に対しても、もう少し真摯に向き合えるのでは。私は思います。
さて、十界論のうちで六界については前回、簡単にですか触れてみました。六界のうち、地獄から畜生までを「三悪道」と呼んていて、人間の心の状態としては最悪な部類に入ると言われています。そこに修羅界を入れると「四悪趣」となるわけですが、修羅の怒りとか諂曲というのは、ある意味で「他より勝れたい」という自分の向上心の意識がある分だけ、多少はマシだという話もあります。
何れにしても、この六道といわれるものは、日蓮も「他面の色法に於ては六道共に之れ有り」とある様に、人の表に出る感情の状態を表すものに対して、他の四聖と言われるものは「四聖は冥伏して現われざれども」と、その感情の奥に存在する心の働きだと言っています。つまり十界論と言っても、けして横並びに論じられるものでは無いと言う事。私はその様に考えています。
声聞界とは、自身をより向上させるために、人の言葉や過去の人の言葉に耳を傾ける事を指します。縁覚界とは、そんな学びの中で閃きを得て、理解する事。菩薩界とは他者に施しを行い、人に尽くす心を指します。これら三つを「三乗」と呼んでいますが、大乗仏教の法華経以外の教えとは、人々をこの三乗に導く教えともいわれています。
考えてみれば私達は日常生活の中、常に目の前の事や自分自身の周囲の出来事に汲々としています。そして人生の時間とは、そういう中でも無常に過ぎ去ってしまい、気付いてみれば年を取ってしまっている。そのようなものかもしれません。この状態では常に目の前の事柄に紛動され、この人生の意義という事にすら思いをはせる事もなく、やもすれば無為な人生を送ってしまう。こういう事を「六道輪廻」と呼んでいるのかもしれません。
一方で人生の気づきを得る事で、四聖の心を持っても、声聞界ではそれに即した六道の感情の動きというのがあり、縁覚界では縁覚界の六道の感情の動きがあります。そして人に施しを行うという菩薩の心をもってしても、やはり表に出てくる心の動きは六道の動きとなります。
では仏界とはどうなのか、そこはさらに一重入り込んだ観点になるのではないでしょうか。日蓮は開目抄では以下の様に語っています。
「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」
ここでは、地獄から菩薩までの九界の心の働きは「無始の仏界=常住の仏の心」に具わるものであり、この常住(過去から未来まで絶える事のない)の仏の心とは、この地獄から菩薩までの心の働きとして現れると述べています。
観心本尊抄では「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ」と、仏界の心は現れる事は難しいと述べていますが、表面的には私達の心の動きとして現れている奥底にある心であり、この事を以て「信じる」という事で理解すべきであると言うのです。
この様に、十界論という事を少し考察を加えてみると、ここには「一念三千」が、朧気ながら見えてきます。また十界の各界は横並びで語れるものではなく、「六道」「四聖」と言っても、そこには階層的な構造が隠れていて、それら心の働きの「底心(奥底にある心)」として仏界はあるという事が、読み取れるのではないでしょうか。そこから考えると、十界論を「境涯を的確にとらえ、各人がそれぞれの境涯を変革していく指針」と考えるべき事では無いのです。
よく創価学会では「生命の法則」として十界論を紹介してますが、そこにはやはり思索が不足していると言ってもいいでしょう。創価学会では今度、新刊の御書を発刊するという話もありますが、単に選挙の劇を入れる為の言葉集の様に扱う事だけは、やめてほしいものですね。