自燈明・法燈明の考察

広宣流布について考えるべき事

 今週でほば、1月は終わります。1月は「行く」、2月は「逃げる」、3月は「去る」と言われるように、年明けの3ヶ月はあっという間に過ぎ去ることが、昔から言われています。何とか日々を大事に過ごして行かねばなりませんね。

 さて、創価学会にしろ顕正会にしろ、はたまた日蓮正宗にしろ、広宣流布という言葉をよく使います。創価学会では公式のホームページで、この広宣流布については以下の様に述べています。

日蓮大聖人の仏法は、各人の生命境涯を変革し、今世のうちに絶対的幸福境涯を開くことを可能にする教えです。それとともに、各人の生命境涯の変革を通して、社会全体の平和を達成することを目指しています。

 ここでは広宣流布を「社会全体の平和」と言っていますが、そもそもこの言葉が書かれているのは、法華経薬王菩薩本事品で釈迦が宿王華という菩薩に語った以下の言葉に拠っています。

是の故に宿王華、此の薬王菩薩本事品を以て汝に嘱累す。我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。

 ここでは法華経を広く宣べ、止める事なく流布する事で悪魔や魔民、また諸天や様々な存在に、法華経が無くなったという様な事を知らさない様にする事が言われています。ここでは悪魔や魔民、鬼(夜叉)も言われていることから、法華経を広める事により、人々の心の中に「負の思想の連鎖」を起こさない様にする事が、ここで広宣流布と呼んでいると私は考えるのです。

 この広宣流布ですが、日蓮正宗では以前に天皇が入信し、大石寺を本門寺という名前に改称し、大本尊を安置する戒壇堂を国立で建立する事だと言っていました。牧口会長が生きていた時代は、国民の大多数が日蓮正宗に入信する事だと言っていて、「舎衛の三億」というのが、その具体的なモデルだと言ってもいました。これは過去に舎衛国という国があり、国民の三分の一が入信し、三分の一が理解者、残り三分の一が仏敵となる状態だという事です。
 そしてこの日蓮正宗の考え方が基本となってしまっているので、創価学会にしろ顕正会にしろ、自分達の組織拡大を広宣流布だと捉えてしまっているのです。

 しかし果たして組織拡大を広宣流布と呼ぶ事は、法華経にある話と整合性が取れているのでしょうか。そこについては良くよく考えてみる必要性があります。

 戦後に急速拡大した創価学会。当初は千名に満たなかった組織が、戸田会長の指揮の元、十年を経ずに七十五万世帯に急速膨張し、その後、池田氏が会長となり三百万世帯から、ピーク時には八百万世帯にまで拡大しました。
 しかしその後は衰退が始まり、公称世帯は2022年の現在でも変わりませんが、実態としては二百万世帯程度ではないでしょうか。

 当初、創価学会では組織の拡大と、その組織の持つ思想の拡大は等価であると述べていましたが、では実際に創価学会の会員全部がまるで「金太郎飴」の様に、どこを切っても全く寸分違わぬ思想を持って動いているかというと、けしてそうではありません。

 それが顕著に現れたのが、以前にも話題となり、未だに燻っている「安保法制の問題」や「核兵器廃絶条約」に現れています。安保法制では、過去に池田氏と対談したノルウェー出身の平和博士であるガルトゥング氏から、公開の質問状が投げかけられましたが、今に至るまで池田氏は回答をしていません。また池田氏門弟の元国会議員であり、先日に在宅起訴された遠山清彦氏に至っては、過去に創価学会を非難中傷した四月会の母体組織である日本会議の会合に参加し、積極的に憲法改正に動き出していました。
 またこんな組織の行動が会員の中にも疑念を呼び、創価学会の活動から離れた人達も少なからずいたわけですが、創価学会ではそれら離れた人達に対して、彼らは共産党にほだされたとか、創価学会を分裂させる危険分子の様に評価して切り捨てています。しかし創価学会の過去の言動を見てみると、先の安保法制に関する行動や、核兵器廃絶に対する動きと言うのは、創価学会の中でも大きなジレンマを生んでいることは明らかであり、ここから考えてみると、単純に創価学会が過去に主張してきた組織拡大と思想の拡大というのは等価では無いことが良くわかります。

 そして2014年11月に行われた会則改正に伴う、教義改正についても、既にあしかけ8年となりますが、いまだ創価学会の組織の中では徹底されていない現実があります。これを見ても創価学会の組織拡大によって、そこに法華経の思想性の拡大が伴わないことが、明確に示されているのです。
 一部の創価学会組織原理主義者や、思考することが苦手な会員幹部達は、未だにこの組織拡大による思想拡大を盲信していますが、既にこの創価学会や元々の日蓮正宗にあった、こういった広宣流布観は無意味であると考えるべきなのです。

 釈迦時代に成立した仏教教団においても、釈迦滅後百年を待たずに部派仏教への動きが始まりました。日蓮門下においても、日蓮が亡くなった後、時を開けずに「五一相対」と呼んでいますが、門下が分裂しています。過去の歴史で既にこの辺りが判っているのだから、あえて組織的な広宣流布という考え方は捨て去っても良いと思います。

 いくら宗教団体として拡大し、組織的な権勢を誇ったとしても、それは単に組織としての拡大であり、その拡大した組織には様々な思惑のもとで、様々な利権というのは発生してしまいます。例えばその組織で生活の糧を得る人達が出れば、彼らは形而的な思想の課題は蔑ろにしても、組織の収益を優先する事であろうし、その組織により仕事をしている人であれば、同じく宗教としての側面ではなく、ビジネス的な側面を重視するのは当然の事です。
 その様な利権を優先の考えが出てきた時点で、思想集団としての命脈は絶たれてしまうのは、当たり前の話なのです。

 では一体、どの様な事が広宣流布であるのか、今一度よく思索をすべき時に来ているのですから、足を止めて考えなくてはなりません。そうでなければ、この広宣流布という言葉を利用した人達に、その宗教を信じる人たちの人生は奪い取られてしまう事にもなるのですから。

 この事を、ここではもう少し考えてみたいと思います。



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