そもそも信仰や仏教の事を自分自身で再確認する中で、私自身の中にあった創価学会へのこだわりがかなり少なくなってきました。その一方で日蓮は何を考えていたのか、そこに対して疑問が生じてきたのです。
創価学会の中で私は「日蓮大聖人」と日蓮の事を教わってきました。ただそれは日蓮正宗大石寺の教義の上の存在であって「久遠元初の末法御本仏」というものでした。しかしそれは宗史や仏教を見直す事で、この日蓮像は後世に形作られたものだという事が理解する事が出来ました。近年、とは言っても創価学会でも2014年11月の教義改正に伴いそこは否定をしたのですが、その後の創価学会ではその否定する具体的な内容について会員には教えていません。
恐らく創価学会としても、日蓮について明確な位置づけを必要としていないのでしょう。実際に私の周囲の創価学会関係者からは「池田先生」という言葉は聞いても「日蓮」という言葉を聞くことはありません。
こんな状況でもあるので、私はこの日蓮の事を考える際、創価学会の文献を引用する事は不適切だと判断したので、創価学会の関連書籍以外を参考として、この日蓮の事について学び直しをする必要があると考えました。
◆立正安国論から
日蓮の一生の化導は「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」という事は良く聞きました。確かに日蓮の生涯を見ると、それは権力者からの迫害の一生だったのですが、その迫害の切っ掛けとなったのは、この立正安国論でした。
日蓮が池上邸で亡くなる際、弟子達に対して最後に講義したのも「立正安国論」だったと言われていますし、牧口会長が日蓮にシンパシーを感じたのも、この国土と仏教という関係性を、この「立正安国論」に観たからだという話もあります。そしていま、創価学会が政治に関与する事の根拠として「立正安国論」にある「四俵の静謐(社会の安寧)」という言葉を利用しています。だから私は、日蓮に関して学ぶのは、この「立正安国論」から始めた方が良いだろうと考え、まずはこの立正安国論を読み進めてみる事にしたのです。
・題号の意味について
立正安国論の題号である「立正」とは「正を立てる」という事を言い、「安国」とは「国を安寧にする」という意味と私は捉えました。
日蓮が生まれたのは1222年(承久四年)でしたが、この前年の1221年(承久三年)には、「承久の乱」というのがあり、これは後鳥羽上皇が鎌倉幕府を打倒しようと起こした内乱でしたが、結果として上皇方に味方する武士は少なく、時の鎌倉幕府の執権である北条義時が勝利したというものでした。
それまでの日本の政治の中心には朝廷があり、武士と言ってもその朝廷の臣下だったのです。平清盛も武家の出自でしたが、平家は朝廷の中に入り込み、そこで天下を治めたのであって、この承久の乱まで、やはりまだ日本の政治とは朝廷が中心となっていたのです。
しかしこの承久の乱以降、日本の中で鎌倉幕府の威光が強まる事にもなり、日本国内では「二重統治」の様な社会になったと思われます。簡単に言えば朝廷側の統治機構と、鎌倉幕府の統治機構の二つが重なった社会構造と言っても良いでしょう。
この承久の乱から二年後には幕府の中で「連署」が設置され、その翌年には「評定衆」の設置されました。また1225年(嘉禄二年)には鎌倉幕府の将軍として九条頼経が就任し、幕府としても摂関将軍を置く事になりました。それまでは源氏の棟梁を将軍としていましたが、この摂関将軍の開始は、鎌倉幕府として執権政治体制を固め始めた事を意味しています。つまり鎌倉幕府として日本の統治機構を順次整備していた時期と思われます。
日蓮が幼少期を過ごした安房小湊(現在の千葉県小湊近辺)では、地頭の東条氏が力を付け、それまでこの地域を統治していた領家との小競り合いも多くあった様で、それが後に領家の尼と東条景信との裁判沙汰にも発展する事になりました。
また当時は社会的な混乱だけではありません。1227年(嘉禄三年)には鎌倉の大地震が発生し、1231年(寛喜三年)の春先には寛喜の大飢饉も発生しています。これは社会の混乱と共に天災も続き、社会には悲惨な状況も多く発生していたと思うのです。
恐らくこの様な社会的な混乱の様相を見ながら幼少の日蓮は成長をしていったと思うのですが、こういう事を考えてみた時、日蓮が「立正安国論」を認める事を決意した根っこにある事が解るように思うのです。
・生身の虚空蔵菩薩の伝承
日蓮は1233年(貞永二年)に清澄寺に登ります。これには師匠である道善房が幼少の日蓮の利発さを見抜いて清澄寺に登らせたという話も伝承として伝わっています。この当時の事について、日蓮は善無畏三蔵抄という御書では以下の様に語っています。
「而るを日蓮は安房の国東条の郷清澄山の住人なり、幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき、其のしるしにや日本国の八宗並びに禅宗念仏宗等の大綱粗伺ひ侍りぬ」
ここで日蓮は幼い頃から虚空蔵菩薩に「日本一の智者に」と願を掛けていた時に、虚空蔵菩薩が現れて明星の様な智慧の珠を授けられたという事が述べられていて、これによって仏教の表しを理解したと言い、これが後に「虚空蔵菩薩の伝説」として、日蓮門下の中に少なからず議論を呼ぶ事になりました。虚空蔵菩薩とは真言宗で立てている菩薩であり、日蓮は後に「真言亡国」と真言宗を攻撃しているにも関わらず、この時に願を真言宗の菩薩に掛けて、そこから智慧の宝珠を受けたのは一体どういう事なんだという事です。
しかし同抄には以下の続きが書いてあります。
「此の諸経諸論諸宗の失を弁うる事は虚空蔵菩薩の御利生本師道善御房の御恩なるべし」
この事から考えると、幼少期の日蓮はこの乱れた社会を安寧にしたい、その為に「日本一の智者となりたい」と、恐らく清澄寺にあった虚空蔵菩薩に対して願掛けをしていたのでしょう。そんな幼少の日蓮に師匠の道善房が天台宗で述べている法華経第一の教義を教え、この法華経こそが仏教の最高峰の教えである事を語ったのではないでしょうか。その事をここで「虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて」と語っていたのであり、何も後の日蓮の行動の中であった「真言亡国」という言葉と混同して考えるべきではないのです。
ここで考えるべき事は、日蓮が幼少期から社会の混乱を意識して、その混乱を治める為の「智慧」を欲していたという事ではないでしょうか。
そこから考えると、日蓮の求めていた仏教の教えとは、単なる御利益信心では無いという事と、社会への関心を強く持っていた事を理解すべきではないでしょうか。