自燈明・法燈明の考察

イブの七人の娘たち

 私が興味を持っているのは、仏教というよりも、そこで書かれている人の心の事です。ブログを始めて一月ほど過ぎ、まずは仏教関係について様々な事を、勝手に書かせてもらいました。しかしこの人類というか、人はどこから来たのでしょうか、そこについても興味がある処です。

◆イブの七人の娘たち
 人間の細胞の中にはミトコンドリアというものがあります。このミトコンドリアですが、細胞内細胞の様なものて、独自の遺伝子情報を持っているのですが、このミトコンドリアは母親系の物しか子供には受け継がれないという特性があります。だからミトコンドリアの遺伝子を辿る事で、母系の遺伝的繋がりを辿る事が出来るので、以前にこれを調査したところ、約二十万年前にアフリカに住んでいた女性であったという研究結果が発表されました。
 この事からイギリスの遺伝子学者が「イブと七人の娘たち」という本を書いて、そこそこ話題になりましたが、ミトコンドリア・イブという事で言えば、二十万年前にあるミトコンドリアが共通なアフリカにいた女性(たち)を元に、今の人類が産み広がったという事であって、そこが何人であったとか、具体的な事が解ったと言う事では無いようです。

◆ミッシングリンクと人類の起原
 近年ではダーウィンの進化論も真実を指す理論では無いと言われ始めているようですが、そもそも人類の起原自体がまだ明確にすらなってません。
 学校では人類の祖先は今の類人猿と共通の祖先であり、そこから進化して今の人類になったと教えられましたが、そこには「ミッシング・リンク(失われた繋がり)」というのが存在します。有り体に言えば類人猿と共通の祖先から人類は進化の枝別れをしたといいますが、人類と類人猿の間を取り持つ種族が見つかっていないのです。その為、近年では真面目に人類の誕生には、外的操作(知的な生命体による遺伝子操作)により、人類は誕生したという説も、真面目に論じられ始めていたりします。

 極めて個人的な考えを言わせてもらえば、恐らく人類の創生には、何かしらの遺伝子操作が入ったのではないかと、私はほぼ確信をしていますが、今の時にそれを話しても、なかなか受け容れられる訳もなく、恐らくそれを真面目に主張したなら「陰謀論・オカルトホリックの変わり者」というレッテルを貼られる事でしょうから、私は敢えてこの段階では主張はしません。ただ個人的に考えている、単なる進化論では片付けられないと思われる内容について、まずは書かせて頂こうと思います。

◆ホモ・サピエンスの多様さ
 人類とは、ホモ・サピエンスという種族に分類されますが、この種族の多様さに私自身は物凄い関心を持っています。
 例えば北欧系の人達から始まり、アーリア系と呼ばれる中には、アングロサクソンやインドの人達、またゲルマン民族まで広義の意味では含まれます。モンゴロイドは中央アジアから極東方面、また南北アメリカに住んでいるインディアン系の人達もモンゴロイドです。またヨーロッパとアジアの混血的な民族ではスラブ民族が居ますよね。ロシアや東ヨーロッパ、そしてパルカン半島あたりまで。
 あとはアフリカ大陸にはニグロイド(黒人)も居ますが、黒人にしても他種多様であり、一つではありません。
 オーストラリアの原住民であるアボリジニは、ミクロネシア辺りの人達とは親しいのでしょうか、私は人種の専門家で無いから分かりませんが、何かしら親しい感じを受けています。
 細かく見ていけば、一口に「ホモ・サピエンス」と呼んでみても、外観や持ち合わせている性質等は、かなり他種多様なものになるではありませんか?
 何故この様な多様さを持ち得たのでしょうか、果たしてそれは住んでいる地域によって環境が異なるから、その異なった環境というだけで、これだけの多様性を人類は持ち得たのか、私は不思議でならないのです。

 例えは適切ではないかもしれませんが、犬という種族はオオカミの仲間です。しかしチワワから始まり柴犬や秋田犬、ドーベルマンなどその多様性は人類以上かもしれません。これら種類は、犬という種族が、人類と共生をするなかで、人類の介在により獲得し得たものでしょう。これは猫も同じですね。
 私は人類の持つ人種の多様性も犬や猫と同じ様な感じがしてならないのです。

◆多様な言語と文化
 人類には多様な人種・民族と共に、多様な言語が存在します。これら言語の違いも一体どの様に発生したのでしょうか。それについても学説はマチマチありますが、未だ確定すらしていないのです。この言語の違いについては、旧約聖書の創世記11章に「バベルの塔」についての話があります。

全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。

 ある仮定の話ですが、人類が「もし」一つの言語で統一されていたのであれば、人類社会というのは、もしかしたらもう少し平和な歴史を刻んでいたのかもしれません。人種や民族が違い、言語が違えば醸成される文化も異なったものになったでしょう。

 恐らく人類とは、ある一定の共通の母親から誕生したのかもしれません。しかしそこで誕生した人類が、何らかの影響により多様性を持たされ、そこに異なった言語を与えられ、その先に今の人類社会があったとした場合、私達はどの様にこの人類社会を捉え、生きていけば良いのか。

 こいう事も考えなければならない時代になりつつあるのではありませんか。



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