でも政治家の質が落ちたという事は、国民の政治意識も落ちたという事であり、一番の問題は、やはり国民の政治に対する意識とその姿勢なのかもしれません。
今日は日蓮の著した「立正安国論」について、思うことを書いていきます。
◆立正安国論とは
これは私の時代であれば、中学生の時、歴史の授業で鎌倉時代の事を学んだ時に初めて耳にしました。
授業で聞いた内容は、鎌倉時代の僧侶である日蓮が、時の幕府に対して立正安国論を提出し、そこには法華経を信じなければ災害は続くし、これから起きる事として、後に起こる2月騒動(北条時輔の乱)と蒙古襲来(元寇)を予言したという事です。
学校の授業として聞くのはこの位で、普通の人であれば、忘れてしまうという程度の内容ですが、私はその後、創価学会で活動をしたので、そこではより詳しく内容を学びました。
しかし今振り返ると、詳しく学んだと言いながら、その内容はやはりあまり正酷を得たものではなく、どちらかと言えば日蓮の本意というよりも、公明党の選挙活動を正当化する様な創価学会としての我田引水の読み方でした。
その後、最近になり私自身は幾度かこの立正安国論を読みました。その際には一切、創価学会の資料とか、大石寺の解釈論に頼らずに読んだところ、全く違うことが見えてきたのです。これはいずれこのブログとは別場でまとめたいと思ってますが、概略的な処についてここて書いていきます。
◆著作のキッカケ
日蓮がこの立正安国論を著したのは、立教開宗の説法をした結果、故郷の安房小湊(今の千葉県小湊)を追われ、当時の日本の中心地である鎌倉に拠点を構えて五年ほど経過した時でした。
日蓮は鎌倉で精力的に法華経を広める活動をしていたと思いますが、そんなある時に「正嘉の大地震」があり、鎌倉は壊滅的な被害を受けた様です。後に日蓮が書いた立正安国論奥書によれば、この大震災を受けた時に、この大災害の原因について考え始め、それを書にまとめて時の幕府の実権者である北条時頼(この時は出家して最明寺入道と呼ばれていた)に上呈しました。これが立正安国論だったのです。
◆上呈による波紋
日蓮は時頼の側近である宿屋入道に安国論を託して、上呈をしたのですが、その後に何ら幕府から沙汰はありませんでした。一般的には幕府は無視したとか言われてますが、恐らく北条時頼は幕府の重臣達に回覧をさせていたと思われます。
よく日蓮を語る物語では、北条時頼は暴君的に書かれたりしてますが、歴史的に見ると北条時頼は、指導者としてはそれなりの人物の様でした。考えてみたら鎌倉幕府というのは、強固に固められたものではなく、多くの御家人と言われる豪族の寄り合い所帯であり、それを北条得宗家の元にまとめるのは並大抵な事ではありません。それを行った人物は暴君では務まらないでしょう。
当時の鎌倉幕府の文化政策は、新たな日本の中心である鎌倉を、京都に負けないくらいの文化都市にしようとしていた様で、その為に京都から多くの高僧を招聘し、多くの伽藍を建立してその別当(責任者)に当てていました。そしてその中心に居たのが北条重時であったようです。日蓮の立正安国論は、この幕府の文化政策に対して真っ向からの批判となり、それはこの北条重時の逆鱗に触れました。
◆松葉が谷の法難
北条重時は北条時頼の義父にあたります。だから彼の人が名君であったと呼ばれても、恐らくその義父である重時の怒りを収めることは出来なかったのでは無いかと。そしてその結果が、松葉が谷の法難となったようです。当時の鎌倉幕府は御成敗式目という成文化された法律があり、あまりに真正面からの意見に対して、幕府としては処断する事が出来なかった。しかし重時のメンツや時の鎌倉仏教界への示しもつかないので、あの様な草庵を破壊して脅しをかけるという行為に出たのでは無いかと思われます。
日蓮の草庵を襲撃したのは誰なのか。熱狂的な念仏宗の門徒であったのか。この点に関して、日蓮自伝考や日蓮伝再考の著者である山中耕一郎氏は、鎌倉大仏の造立に当たっていた職人達を、幕府は焚き付けたのでは無いかと想定していますが、私もその説を支持しています。これは断簡として残っている論談敵対御書にある記述もそうですが、人を一番動かすのは宗教の教えではなく、最終的には資本が絡んだ時だと考えているからです。
当時の寺院建立や大仏造営等は、今で言う公共事業であり、そこで仕事を得ていた仏師や経具師などは、仕事が減れば死活問題でしょう。鎌倉大仏は阿弥陀如来なので「念仏を非難する悪僧日蓮」という言葉で扇動するのは容易いことだと思います。
日蓮の生涯は立正安国論に始まり、立正安国論に終わると言われてますが、まさにこの立正安国論により、生涯掛けて闘争する幕府との火蓋が切られたのでした。