さて、今晩はこの関係について記事を一つだけあげたいと思う。
安倍政権、またそもそも今の自民党は、今の日本国憲法を改正したいという考えがあるようだが、近代史を考えるにあたり、始めにこの日本国憲法という事から考えてみたい。
私自身、学校を卒業してから創価学会で活動し、そこで只管教えられたのは「護憲」という立場であった。曰く「平和憲法」「憲法九条死守」。こういった事を兎に角教えられてきたのであり、今の日本が平和であるのも日本国憲法があるからだと教えられてきた。
以前に私はあるフリー・ジャーナリストの主催する会合に参加をした事があった。このジャーナリストはいわゆるバリバリの「左系」の人であり、日本国憲法の条文を冊子にして持ち「これがあれば、全ての事が論破できる!」なんて豪語していた。その姿を見た時に「日本国憲法は不磨の大典なのか」と私自身、とても馬鹿らしく思ったのである。
今の日本という国には様々な問題があるのは、前の記事にも書いた通りだが、例えば近年話題になった「安保法制の問題」についてもしかり、「辺野古移設問題」に象徴される沖縄に米軍基地が集中している問題についても、その原因の根本には、日本国憲法に象徴される日本人の意識の問題があると考えている。
ここで断っておきたいのは、今の私は「護憲派」の立場ではないという事。護憲か改憲かと問われれば、私は「改憲派」に分類される立ち位置にあると思う。しかし誤解して頂きたく無いのは、今の私は安倍政権や関係議員が主張する様な改憲案は、断固拒否をしたいと思っている。あの様なある意味で「懐古主義的」な改憲をするなら、今のままの憲法の方が、まだマシだろう。
また公明党などが「加憲」という言葉を使っているが、このような生半可な憲法修正は百害あって一利なしという事だと考えている。まったくもって「護憲」を一時期とは言え主張していた政党、またそんな宗教団体である創価学会の思想的なお粗末さが、そこにかいま見えてしまうというものだ。
では、今の憲法の何が問題なのか。
そこを書く前に、日本国憲法成立の過程について少し振り返りをしてみたい。
◆憲法成立までの過程
http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=321CONSTITUTION&openerCode=1
元々日本には大日本帝国憲法というものがあったが、昭和20年(1945年)8月15日のポツダム宣言の受諾により同年9月2日に連合国に降伏した日本政府は、そのポツダム宣言で要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意志による政治形態の決定」などにより、事実上の憲法改正の法的義務を負う事となり、そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督のもとで「憲法改正草稿容量」を作成し、その後、紆余曲折を経て、大日本帝国憲法第73条に定められた手続きに従い、昭和21年(1946年)11月3日に日本国憲法は公布され、翌、昭和22年(1947年)5月3日に施行されたのである。
元々日本には大日本帝国憲法というものがあったが、昭和20年(1945年)8月15日のポツダム宣言の受諾により同年9月2日に連合国に降伏した日本政府は、そのポツダム宣言で要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意志による政治形態の決定」などにより、事実上の憲法改正の法的義務を負う事となり、そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督のもとで「憲法改正草稿容量」を作成し、その後、紆余曲折を経て、大日本帝国憲法第73条に定められた手続きに従い、昭和21年(1946年)11月3日に日本国憲法は公布され、翌、昭和22年(1947年)5月3日に施行されたのである。
◆終戦から憲法制定までの日本政府の動向
降伏直後から、日本政府部内では、いずれ大日本帝国憲法の改正が求められる事は予想していたが、喫緊の課題ではないと当時、日本政府部内では考えられていた。しかし昭和20年(1945年)10月4日にマッカーサー最高司令官は東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿に対して憲法改正を示唆したのである。
この日に連合軍総司令部は治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇制批判の自由化、思想警察の全廃なども同時に日本政府に実施を命令、翌10月5日に東久邇宮内閣は「この指令は実行できない」と総辞職し、10月9日に幣原喜重郎内閣が成立する。
10月11日に幣原首相がマッカーサー司令官に挨拶に訪れた際、マッカーサーから口頭で「憲法の自由主義化((1)選挙権賦与による婦人の解放、(2)労働の組合化促進、(3)自由主義的教育を行うための諸学校の開設、(4)検察・警察制度の改革、(5)経済機構の民主主義化。)の必要性を指摘された。
これに先立ってマッカーサーから憲法改正の示唆を受けていた近衛文麿は、政治学者の高木八尺、憲法学者の佐々木惣一、ジャーナリストの松本重治らとともに、憲法改正の調査を開始した。10月8日には、近衛は高木らとともに総司令部政治顧問のジョージ・アチソンと会談して助言を請い、「個人的で非公式なコメント」として12項目に及ぶ憲法の問題点の指摘や改正の指示を受けた。また、近衛らの作業と並行して、幣原内閣は、松本烝治・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置、憲法改正の調査研究を開始したのである。
こうして、内閣と内大臣府の双方で、それぞれ憲法改正の調査活動が進められることとなった。このうち、近衛らの調査に対しては、近衛自身の戦争責任や、閣外であり憲法外の機関である内大臣府で憲法改正作業を行うことに対する憲法上の疑義などが問題視されて、批判が高まった。11月1日、総司令部は「近衛は憲法改正のために選任されたのではない」として、マッカーサーが近衛に伝えた憲法改正作業の指示は、近衛個人に対してではなく、日本政府に対して行ったものであるとの声明を発表した。これにより、近衛らの調査活動は頓挫したものの、近衛らは作業をつづけ、11月22日に近衛案(「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」)、11月24日に佐々木案(「帝国憲法改正ノ必要)をそれぞれ天皇に奉答したのである。
このような経緯をたどって、憲法改正作業は内閣の下に設置された松本委員会に一本化されることになった。松本委員会は、美濃部達吉(東京帝国大学名誉教授)、清水澄(憲法・行政学者で枢密院議長)、野村淳治(法学者)を顧問とし、憲法学者の宮沢俊義(東京帝国大学教授)、河村又介(九州帝国大学教授)、清宮四郎(東北帝国大学教授)や、法制局幹部である入江俊郎、佐藤達夫といった法制官僚らを委員として組織された。
松本委員会は、10月27日に第1回総会を行い、同30日に第1回調査会を行った。以後、総会は1946年(昭和21年)2月2日まで7回、調査会(小委員会)は同1月26日まで15回開催された。
1946年(昭和21年)1月9日の第10回調査会(小委員会)に、松本委員長は「憲法改正私案」を提出した。この「私案」は、前年12月8日の衆議院予算委員会で、松本委員長が示した「憲法改正四原則」をその内容としており、委員会の立案の基礎とされた。「憲法改正四原則」の概要は次の通りである。
降伏直後から、日本政府部内では、いずれ大日本帝国憲法の改正が求められる事は予想していたが、喫緊の課題ではないと当時、日本政府部内では考えられていた。しかし昭和20年(1945年)10月4日にマッカーサー最高司令官は東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿に対して憲法改正を示唆したのである。
この日に連合軍総司令部は治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇制批判の自由化、思想警察の全廃なども同時に日本政府に実施を命令、翌10月5日に東久邇宮内閣は「この指令は実行できない」と総辞職し、10月9日に幣原喜重郎内閣が成立する。
10月11日に幣原首相がマッカーサー司令官に挨拶に訪れた際、マッカーサーから口頭で「憲法の自由主義化((1)選挙権賦与による婦人の解放、(2)労働の組合化促進、(3)自由主義的教育を行うための諸学校の開設、(4)検察・警察制度の改革、(5)経済機構の民主主義化。)の必要性を指摘された。
これに先立ってマッカーサーから憲法改正の示唆を受けていた近衛文麿は、政治学者の高木八尺、憲法学者の佐々木惣一、ジャーナリストの松本重治らとともに、憲法改正の調査を開始した。10月8日には、近衛は高木らとともに総司令部政治顧問のジョージ・アチソンと会談して助言を請い、「個人的で非公式なコメント」として12項目に及ぶ憲法の問題点の指摘や改正の指示を受けた。また、近衛らの作業と並行して、幣原内閣は、松本烝治・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置、憲法改正の調査研究を開始したのである。
こうして、内閣と内大臣府の双方で、それぞれ憲法改正の調査活動が進められることとなった。このうち、近衛らの調査に対しては、近衛自身の戦争責任や、閣外であり憲法外の機関である内大臣府で憲法改正作業を行うことに対する憲法上の疑義などが問題視されて、批判が高まった。11月1日、総司令部は「近衛は憲法改正のために選任されたのではない」として、マッカーサーが近衛に伝えた憲法改正作業の指示は、近衛個人に対してではなく、日本政府に対して行ったものであるとの声明を発表した。これにより、近衛らの調査活動は頓挫したものの、近衛らは作業をつづけ、11月22日に近衛案(「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」)、11月24日に佐々木案(「帝国憲法改正ノ必要)をそれぞれ天皇に奉答したのである。
このような経緯をたどって、憲法改正作業は内閣の下に設置された松本委員会に一本化されることになった。松本委員会は、美濃部達吉(東京帝国大学名誉教授)、清水澄(憲法・行政学者で枢密院議長)、野村淳治(法学者)を顧問とし、憲法学者の宮沢俊義(東京帝国大学教授)、河村又介(九州帝国大学教授)、清宮四郎(東北帝国大学教授)や、法制局幹部である入江俊郎、佐藤達夫といった法制官僚らを委員として組織された。
松本委員会は、10月27日に第1回総会を行い、同30日に第1回調査会を行った。以後、総会は1946年(昭和21年)2月2日まで7回、調査会(小委員会)は同1月26日まで15回開催された。
1946年(昭和21年)1月9日の第10回調査会(小委員会)に、松本委員長は「憲法改正私案」を提出した。この「私案」は、前年12月8日の衆議院予算委員会で、松本委員長が示した「憲法改正四原則」をその内容としており、委員会の立案の基礎とされた。「憲法改正四原則」の概要は次の通りである。
1)天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の
基本原則は変更しないこと。
2)議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に
2)議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に
関わる事項をある程度制限すること。
3)国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は
3)国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は
議会に対して責任を負うこと。
4)人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な
4)人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な
救済の方法を講じること。
以上が憲法成立へ向けた、当時の日本政府の初動に関する事実とされている。
以上が憲法成立へ向けた、当時の日本政府の初動に関する事実とされている。
ここで見えるのが、当時の日本政府の中には世界の趨勢というのが、全く見えていなかったという事実である。
日本が近代国家になった明治期、世界は帝国列強の時代であり、日本も主にヨーロッパの帝国列強の姿を模して近代日本という国を作り上げて来たのである。この事について異論をはさむ人は居ないであろう。
大日本帝国憲法
この名称を見ても、日本が帝国主義の末席に連なったという事が理解できる。しかし欧米では20世紀に入り、帝国主義はなりをひそめ始め、民主主義国家という方向に進みだしていた。そしてマッカーサー元帥が10月11日に幣原首相に対して口頭で示した内容も、この民主主義国家としての骨子であった。しかし翌年1月9日に出された「憲法改正四原則」を見ると、その世界の動向を当時の日本政府の首脳たちが理解できていなかった事が解る。
こういった当時の日本首脳陣に対して、GHQ(連合国軍司令部)はどの様に臨んだのか、それは次回に続けたい。
(続く)