自燈明・法燈明の考察

折伏精神なんて無駄だと思うな

 安倍元総理が襲撃され、その原因になっていた事が「統一教会」であった事から、ここ最近では政治と宗教という関係性が世間では取りざたされる様になりました。政治と宗教と言えば、いわずと「創価学会・公明党」の関係も取りざたされる事になり、ツィッターなどではその関係のやり取りも結構見えたりします。

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 こういうやり取りも、互いに意見を交わし合えるのであれば、それはそれで実りあるものになると思うのですが、政治が絡むと中々こういう事は対話に成り得ない事があります。いわゆる飲み屋などでタブーとされる話題として「野球」「政治」「宗教」があるのですが、この話題はそのうち政治と宗教に絡むので、やはり一筋縄では行きません。

 特に日蓮系の宗教(創価学会もそうですが、顕正会や日蓮正宗など)では、「折伏」なんて考え方があるので、引く事なく相手を追い込む事が対話だと勘違いしている人が多くいます。

 以前にもこのブログに書きましたが、そもそも日蓮は「法華折伏・破権門理」という天台大師の言葉を掲げて、鎌倉当時も特に他宗派に対して徹底して対論を求めてきました。
 「折伏」とは何か。これは「悪人・悪法を打ち砕き、迷いを覚まさせること。人をいったん議論などによって破り、自己の誤りを悟らせること。あるいは、悪人や悪法をくじき、屈服させること。」を言います。要は自分自身の主義主張を「正しい」という前提に、議論で相手を論破する事を指していて、これは仏教の修行法を示した言葉です。
 日蓮は天台教学を基本として、法華経至上主義の教義を元に、当時の念仏宗や禅宗など、様々な宗派を論破してきました。そして日蓮信奉者の中にはこういった日蓮の行動が「正しい行動」という事で刷り込まれているので、自宗派の教えを「絶対的な正義」として、他者の話を論破する事が大事な事だと錯誤しているのです。

 そもそも教義があったとして、それを自分自身がどの様に消化しているのか。それによって「自分の信じる教え」の中身も変わってきます。だからもし折伏をするにしても自身が常に教学研鑽を行い、思想的に磨きをかけておかねばなりません。「教え」が一つであっても、解釈する人が百人いれば百通りの教えが出てしまうというのは良くある事で、果たして自身の主張が正しい事なのかを、他者を論破する以上に自己研鑽して深堀し、思想性を深めておく必要があるのです。

 しかし往々にして、今ある日蓮系の宗教団体の会員や信者というのは、教学研鑽や思想的な磨きをせず、そこは教団の言葉を受け売りで主張する事が、折伏だと勘違いしている事から、いざ対話をしようにも対話にすらならず、そこはマウントを取って自身が「絶対的に正しい」という姿勢を堅持する事のみ、腐心してしまうのです。

 さて話を戻して、政治とはある意味で議論は付き物です。そんな政治の議論の世界に、創価学会の活動家は仏教の「折伏」の考え方を持ち込んで来るので、これまた質悪い事になります。要は議論にすらたどり着けず、何故か創価学会や公明党の主張を持って、相手を追い込む議論になるか、都合が悪くなると耳を塞いでしまいます。まあ自分が信じる創価学会や公明党の主張が否定されるのは、自分自身の信仰が否定される事と錯誤するので、こういう姿勢に固執してしまいます。そして結果、いまツィッター等SNSで見られるような、実りの無い議論が展開されてしまう事になるのです。

 いま世の中で統一教会を切っ掛けとして政治と宗教の議論がなされていますが、これは民主主義体制にとって、とても大きな問題を提起しています。そういった状況にも関わらず、創価学会の活動家は、政治に関与しているにも関わらず、「折伏」という概念に固執してしまい、結果として大事な事を認識して理解する事に大きな妨げになってしまいます。

 そういう事も気付いてほしいと思いますが、これは中々難しい事なんでしょうね。特に創価学会の活動家にとっては。

 この時代、折伏精神なんて無駄だと思うな。


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