いや~、今年も酷暑の季節が到来しました。昼のワイドショーを少し見ていましたが、気象関係では「観測史上初」という単語を耳にします。でもこの言葉、何だか毎年言っていませんか?そうであればここ十年位の間の気候変動が、過去類例を見ないほど大きくなっているという事を暗に示していますよね。
この酷暑期間が始まり、個人的に気になっているのが、水瓶の問題。都心の水を確保しているダムとかは問題ないのでしょうか。また農作物への心配もあって、秋以降の野菜の値段など、急騰する事は無いのでしょうか。
今の日本に対しては、本当に様々な事が個人的に気になってしまうのです。

そんな話題は脇に置いといて。
ここ最近の国内の話題は「統一教会と自民党繋がり」「宗教と政治の関係」が多いですが、これは恐らく日本人にとっては一過性の事なんでしょう。以前に桜田淳子や山崎浩子が統一教会の合同結婚式に参加して結婚しましたが、当時のワイドショーでは大騒ぎしていて、そこに霊感商法だ高額の坪売り、はては珍味の販売なども取り上げて「異常な統一教会」を挙って取り上げていましたが、時と共に沈静化し、人々はそんな事すら忘れてしまいました。
恐らく今回の統一教会と政治家の関わりについても、今でこそマスコミは騒いでいますが、どこかで手打ちして騒がなくなってくる筈で、それによって前回同様、日本人は忘れてしまうと思います。
恐らく自民党政治家はそれを理解しているから、沈静化する事を待っているんでしょうね。こんな政治家やマスコミに舐められているのは日本国民であり、韓国の統一教会関係者もそれを熟知している事でしょう。
さて今回の記事は、私の思索している事について、少しつらつらと書いてみたいと思います。
これは私の勝手な分析ですが、日本人の精神構造の根底には「八百万の神々への信仰」というのが根付いていると思います。それは日常生活の中で、あらゆる物への神性を感じて生活するというものであり、すべての尊いと言われるものを大事にします。だから海外から日本人は宗教に寛容だとよく言われますが、これは寛容なのではなく、どんな神様であってもあまり信仰する事に強いこだわりはないという事だと思うのです。
そんな日本人社会であれば「統一教会」が日本社会に入り込む事も容易であったわけだし、今回亡くなったの安倍元総理大臣を「国葬」にする事にも、あまり拒否反応を示さない。これ等はこういった日本人の持つ精神構造が関係しているのでは無いでしょうか。
こういった日本なので「神」とは言っても、その定義される枠組みは極めて広いのです。欧米で言えば「GOD」も、日本人から言えば「神」です。
キリスト教やユダヤ教、そしてイスラム教の主祭神も「神」。
インドで生まれた大梵天王、帝釈天王等も「神」。
日本古来の天照大神も「神」なら、八幡大菩薩も「神」。
ついでに言えば、仏教の釈迦や阿弥陀如来、薬師如来なども「仏」と言いますが、それでは「神」と「仏」がどう違うのか、多くの日本人は理解していないと思いますが、いかがでしょうか。
また日本人はこれら「神」や「仏」を有難がり、おすがり信仰する事はあっても、それを自分の人生の精神的な基範として信仰するという概念を理解できないと思うのです。なぜこの様に言うかといえば、キリスト教やイスラム教を信じるという信仰観を理解しているという日本人を、今まで私は合った事がありませんし、私が長年にわたり活動してきた創価学会の中でも、日蓮の事や彼が顕した文字曼荼羅を「御本尊様!」「日蓮大聖人!」とおすがりする人は多く見て来ても、自身の人生の基範となし、それを信仰している人を見た事がほとんど無いのです。
日蓮は鎌倉時代の僧で、天台宗派の教学から新たな展開をした人物であり、彼が顕した文字曼荼羅とは、日蓮が体得したという法華経の世界観を、その法華経にある虚空会の儀式を元に具現化したものだと私は理解しています。それはけして日本人の観念でいう「仏様」でもなければ、呪(まじな)いの為の祈祷対象の「曼荼羅」などではありません。創価学会の活動家の多くがいう「功徳」とは「御利益」の事であり、仏教本来の「功徳」の意味すら誤解している活動家幹部が多いのもそれが故でしょう。
私からすれば創価学会もそうだし顕正会もそう。そもそも大本の大石寺信徒の人達も、ここは大いなる誤解をしていると思うのです。
話は変わりますが、最近になり私は欧米の様々な書物を読む機会がありました。まあ主にスピリチュアル関係に類するものや、ニューエイジというのでしょうか。あとは臨死体験学(NDE)や心理学等に関連するものです。そこで感じるのは、こういった思想の中で彼ら欧米の人達が「神」という言葉で指向するものは、従来のキリスト教やイスラム教などで言う「一神教」の「神」とは似て非なるものを指し示しています。
ではどう云った事を指向しているのかと聞かれると、これまた文字にするのは難しいのですが、私は仏教の中では法華経に説かれている「久遠実成の釈尊」という存在が、その「神」という言葉で指される事に、極めて近いと感じているのです。
「久遠実成の釈尊」という事について、法華経の内容を見てみると、それは「五百塵点劫」という思惟も出来ないほどの過去に成仏した根本仏と説かれています。そしてこの世界に出現した諸仏はすべてこの「久遠実成の釈尊」の迹仏(仮の仏)であり、そこには燃燈仏という、この世界に応誕した釈迦が前世で師事した仏も迹仏だと説かれています。そしてそれは当然、この世界に応誕した釈迦の本地(根本的な姿)でもあるのです。
つまりここで「五百塵点劫」という久遠を示した事で、それは時間的な前後で各々が存在するものではない事を示し、またこの世界の様々な尊き存在の根源的な存在であり、師匠や弟子といった関係性の上でも、ともに共通の心の根源の姿であるというばかりか、それによって各人は「自他彼此」という自我(エゴ)で分断した存在でもなく、各々が独立したながらも、そこの根源では共通の心の基盤があると言うのです。それを法華経では「久遠実成の釈尊」と呼んでいるのです。
例えば毎回出しますが「神との対話(ニール・ドナルド ウォルシュ著書)」で言う神というのも、この様な存在だと言い、「チベット生と死の書(ソギャル・リンポチェ著書)」では「絶対的心理」という言葉で表現されているのもこれにあたります。また臨死体験者の中で出てくる、様々な体験の中でも似たような存在も、この事を言葉として表現したと思われる内容が多く出てくるのです。
考えてみたら、以前の記事にも書きましたが、法華経の成立は釈迦滅後約五百年の時、釈迦を求めた多くの人達が瞑想の中で出会った釈迦から教えられた事が体系化されて成立したと言われていますので、こういった事もあるでしょう。
この世界にある大概の宗教者は、本来は私達の心の中にある身近な存在を「神」とか「仏」という存在を、心の外に示し、それらを超絶的な存在に祭り上げ、その超絶した存在と人々の間に彼らは巧みに入り込み、そこから人々の中にある宗教心を利用して信者を自在に操ろうとします。またそんな宗教に絡めとられた人達は、この宗教者に操られている事も理解できず、さも自分自身が能動的に「信仰心」で行動しているのだと錯誤して、自らが自在に操られてしまうのです。
統一教会の問題や、過去のオウム真理教の問題、そして創価学会にしても、こういった構図は何も変わりありません。人々がこういった「宗教の頚城」を抜け出すためには、従来言われている「神」とか「仏」の概念を捨て去り、真摯に自身の心と内面に向き合う中で、本当に信仰として信じ仰ぐべきものは何なのか。そこを理解しない限りこういった宗教絡みの問題を解決する事は不可能だと、私は思っています。