Twitterにも少し書きましたが、最近趣味関係に没頭したりしていたので、ついついこちらのブログ記事の更新をお座なりにしてしまいました。
この趣味ですが、あまり細かく書くと「身バレ」してしまう事にもなりかねないので、詳細は省きますが、この年齢になってきて正直体力の衰えも感じ始めています。まだヨボヨボという事では無いのですが、やはり三十代や四十代とは、この五十代という年齢は異なります。だから今のうちに出来ることはやっておきたいと思い、趣味の事をコチョコチョと始めました。
私の実父は十数年前に鬼籍に入ったことは、以前にもこのブログには書きました。実母は存命ですが、やはり年齢的にも後期高齢者の部類に入り、何かと生活面で支障を来す事もあるので、いまは介護施設に入ってもらっています。ただ本人からすれば「家族に捨てられた」という感覚を持っていて、先日、私は仕事を休み(入っている介護施設では平日日勤帯しか面会出来ない)面会してきたのですが、面会時間の十分間、ひたすら怨嗟の言葉を言われ続けました。
別に好き好んで預けたわけでは無いのですが、どうしても身内の生活を考えたとき、今の実母の状況では、家族として面倒を見ることが困難な状況なので、施設に預けたのですが、そうは言ってもこれは子供側からみた考え方であり、親から見たら違うのかもしれません。まあ痴呆が進んできているという事もあったんですけどね。
私は若い頃に創価学会の活動に没頭したのも、一つには彼の組織が「宿命転換」と呼び、信心しきれば絶対に幸せになれると言うことを真面目に信じたからでもあります。
しかし現実には年齢を重ね、人生ステージも変化をしていく中で、仏教で説かれるところの「生老病死(四苦)」というのは、否応なく人生の上に現れてくるものです。私の母親にしても、兄弟にしても、創価学会に対しては私よりも純粋に信じてきていましたし、それなりに一生懸命やってきたんですけど、やはり人生の晩年を迎える年齢になると、学会の信心歴とは関係なく人生の四苦に直面してくるわけです。
であれば時間やお金、そして労力など人生にとって大事なリソースを、そんな創価学会かけるのであれば、もっと別な事に傾けた方が良い。これが今の私の実感でもあるのです。だから今の年齢でも出来る事を考え、限られた人生の時間を「趣味」という分野にも掛け始めているのです。
昨日の事、私の嫁がバタバタしていたので、いったい何があったかを聞いたところ、どうやら地元の女性部(婦人部)が倒れて救急車で運ばれたと言います。この人は私もよく知っている人で、年齢もまだ六十代で、老人という年齢ではありませんし、どちらかと言うと婦人部でバイタリティーあるオバチャン、という人でした。
細かい状況は判らないのですが、是非とも無事であって欲しいと念願しますが、その一方で人は何時の時期かは判りませんが、必ずこの世界とは別れを告げなければならない存在でもあるのです。「永遠の生命」「来世は幸福境涯」なんて耳障りの良い言葉聞いたところで、この人生の有限性には何も関係ないのです。
人はこの世界に生まれ落ちた瞬間から、死に向けて進み始めていきます。人生、生きていくなかで、財産を得ていくことがあるかもしれない、生涯を通して添い遂げる伴侶を得て、自分の家族を持つこともあるでしょう。そして様々な地位や名誉、また人生を楽しむ様々な物を得ていきます。
しかし「死」という現実は、この世界で得てきたものを全て一瞬に剥ぎ取ってしまいます。あと残るのは「記憶」に留まる経験だけでしょう。それ以外は「死」を越えて持っていくことは叶わないのです。
だから釈迦は無常を説き、そんなこの世界の物事に執着する事を戒めたのかもしれません。否定はせずに「戒めた」のです。
そんな人生生きていくんですから、全て有限なリソースなのです。だからそんな人生を、単なる組織都合の活動費やすことは、とても勿体無い事だし、それこそ時間の浪費以外の何物でも無いことを私は理解しました。
皆さんは如何思われますか?