皆さんの中で、祈っていた事や考えていた事が現実となったという経験をお持ちの方はいると思います。恐らく創価学会やその他、宗教に長く関係を持った人達の中には「信仰体験」という事で、肌身で感じた人も居るのでは無いでしょうか。
かく言う私も、四半世紀近くに渡り、創価学会の中で真面目に活動した原点には、こう言った「信仰体験」というのが、幾つかありました。詳細は省きますが、周囲から言われて気がついたり、自分でも実感したりと、様々な事を経験してきたのです。その度に「お題目には力がある」と感じ、「御本尊様に祈れば叶わない事は無い」という事を実感してきました。
ただこう言う「信仰体験」が自分の中で「錨(アンカー)」の様になっていて、創価学会という宗教団体に対して客観視する事を阻んでいたことも事実で、それによって組織から離れられなくなり、創価学会のオカシサを感じてから、これを離脱するにはかなりの時間を要してしまったのです。
◆ザ・シークレット
私がこの事に気付く切っ掛けを得たのは、アメリカ人のロンダ・バーン氏の著書「ザ・シークレット」という本を読んだときでした。これはいまから十四〜五年程前に国内でもベストセラーになった本で、当時の私は会社から新規事業を立ち上げよと言われ、日々呻吟していた時期でした。
ある時、取引先の人から「面白い本があるよ」と紹介され、本屋で購入して読んでみましたが、そこに書かれているのは創価学会の川田副会長の指導集に書かれている事とかなり似通ったもので、創価学会の中で言われる「祈りの叶え方」の内容みたいな事でした。
「祈る際にはイメージを明確にもつ事」
「必ず叶うと強く信じる事」その他諸々。
要はしっかりと叶えたい事柄のイメージを強く持ち、けしてそれに対する否定的な思考に引っ張られては行けない、という様な事なのです。そしてロンダ氏が言うには、人類の宗教指導者や成功者はこの「ザ・シークレット(秘密の法)」を理解して活用しているというのです。それを読んだ時思ったのは、創価学会も似たような事を言っているのは、やはりこんな事を理解しての事なのか、とも思ったりしました。
そんな中で当時は御書も読み直していた処、華厳経にある「心如工画師(心は工なる画師の如し)」という言葉を見て、法相宗の仏教唯識派では、この文言を持って一念三千を自宗派に取り入れたとありました。この言葉は、端的に言えば心は優れた画家の様に、自身の周囲の環境を作り出す、という意味で、そこから自身の求める仏というのも、自分の心(一念)から出てくると解釈し、法相宗では一念三千へと引用したようです。
自分自身の心が、自身の生きる環境を作り出す。
これはまさに「ザ・シークレット」と同じ事を指していますよね。また一念三千という法理も、心(一念)が自分、社会、環境へと展開していく様を顕しているので、同様な事を指向しています。
華厳経も大乗経典であり、法華経も大乗経典の最高峰と言われる経典ですが、やはり大乗仏教が指向している事は、近年欧米で言われている事に親しい内容とも言えるでしょう。もしかしたら大乗仏教とは原始仏教から起きたスピリチュアル運動という側面があったのかもしれません。
◆思考を現実化する働き
世界の多くの宗教で、「奇跡体験」というのは存在していました。近年でも「祈れば叶う」という事は何も創価学会の専売特許ではなく、様々な宗教でも言われていることです。創価学会では自教団以外のこの働きは「魔の働き」と教え、けして幸福になる為の事ではないと、会員たちに教えていますが、祈りが叶う事で人が幸せになるか、それとも不幸せになるかは、それはあくまでも本人次第。そこを宗教組織がとやかく言うのはオカシナ話です。
この「人には祈りを具現化する能力がある」というのが、実はとても悩ましいことだと私は最近になりに実感してきます。
各宗教ではこの祈りが叶うことを、自宗派にある特別な力だとか、その指導者の御威光によるものだなんて言いますが、先にも述べた様に、これらの能力とは人がもとから持ち合わせている能力だと私は考えています。そしてそれを発現する切っ掛けは「祈り」という行為であり、そこから起きると私は考えています。しかしながら、多くの人はこれを否定的に捉えています。ただそんな人でも何かを切っ掛けとして宗教団体に関わり、そこで自身が持つこの能力を体験すると、それが如何にもその宗教団体や指導者によるもとなんだと安易に信じ込んでしまうのです。
するとそれによって、その人は自発能動的にその宗教組織に従順な存在になり、絡め取られてしまいます。またそればかりではありません、人生の大事な時間や自分が持つ財産までも、すすんで宗教に貢いでしまうのです。
またそればかりではなく、その宗教そのものから離脱する事も難しくなり、その絆(ほだし)から抜け出る事は容易ではありません。
恐らく宗教団体の指導者層は、信徒達を操作する為にそういった事をよく熟知しているのではないでしょうか。創価学会でも見られる職業幹部たちの中にある「信心に対する姿勢」に、私はその事を強く感じたりもしました。
◆人が自覚すべき事
私は一人ひとりが、自分の心についてもう少し理解すべきだと思うのです。人は自分自身の心に浮かべる心象風景を具現化する能力を持っていて、それは何も特別な事ではありません。ただ悩ましいのが、この「心」という存在は多重的であり、日常私達が認識しているのは、その内の表層的な部分に過ぎないと言う事です。創価学会の中でもよく耳にした「この御本尊に祈ったけど、何一つ叶わなかった」という言葉ですが、実は本人も気づかない心の奥底では、常に別の意識があり、そこ心の奥底の祈りの結果が「祈りが叶わない」という事を招いているのかもしれないのです。
また人は社会性のある生き物です。その社会の姿とは複数の人達の心象風景の集合体だとすれば、一個人の心の心象風景がその社会の中に特別に出現するという事もないでしょう。これはバケツの水にインク一滴を落としても、バケツの水の色に変化が起きない事と同様です。
いま大事な事は、人間が心の姿を理解するという事。そしてその上で自分の人生というのを考える事だと思うのです。そこには「心象風景を具現化できる能力」以外にも、大事な事が隠れており、私達はそれに気付かなければならないのかもしれません。
「心の師とはなれども、心を師とせざれ」
これは釈迦の言葉ですが、そういう事を指しているのではないでしょうか。