創価学会に限らず世の中にある様々な宗教の多くが、自らの宗教を信じる事で「幸福になる事」と謳っています。人生には幸運と不運は常に付き物であり、不運や不遇を人は感じた時、自分より遥かに超越した存在を信じる事で、不運を変えて幸福になりたいと願ってしまうのかと思います。そしてそこに宗教というのが介在してくるのではないでしょうか。
宗教の存在意義は「幸福になりたい」、それだけではありませんが、多くの宗教ではその人々が幸せになりたいという事や、その人が持っている人生の悩みを切っ掛けに信徒を募り、成り立っていると思います。
自称仏教団体の創価学会にしても同様で、高度経済成長期頃に組織が急成長したのは、戸田会長は「この世界から貧乏人と病人を無くしたい」という事を主張し、日蓮の文字曼荼羅を「幸福製造機」と呼び今でも「絶対的な幸福境涯」という言葉を口にして、宿命転換だとか、その為にも選挙戦は大勝利するんだと、組織を急速拡大してきましたし、それを今でも活動家達には教えています。
しかしこと仏教に関して言えば、その目的とする処は「幸福の追求」という理由ではないのですが、こういった過去からの指導により、これを誤解している創価学会の活動家は多くいます。それは「功徳」という言葉の捉え方にも端的に現れているのです。
創価学会では「功徳」という事について、御本尊様(日蓮の文字曼荼羅)に題目を唱え、選挙で公明党の票を獲得したり、聖教新聞の拡販に取り組んだり、はたまた新規会員の獲得をする中で、「願いが叶った」「問題が解決した」また「病が治った」等の信仰体験だと教えて居ます。でもこれは「ご利益」があったと言う事であり、仏教本来でいう「功徳」とは別物なのです。日蓮はこの「功徳」という事をどう捉えていたのか、それは御義口伝に書いてあります。
「御義口伝に云く法師とは五種法師なり功徳とは六根清浄の果報なり」
「功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり、法華経の説文の如く修行するを六根清浄と得意可きなり云云。」
ここで日蓮が言っている功徳とは、六根清浄により得られる事、そしてこの六根清浄を得る事自体を功徳と呼んでいます。ここで言う「六根」とは人の五感や意識、「目耳鼻舌肌意」を指します。つまり日常生活で瞬間瞬間に感じる事や考える事、その様な心の働きを六根と呼んでいます。そしてこの六根が清浄となる事、つまり生活上の出来事や自分が置かれている状況を「ありのままの姿」で曇り無く認識して理解できる事、それを六根清浄と呼ぶのです。
それに対して「良い事が起きた」という様な、自身に益のある事を求めるのは「ご利益信心」でしか無いのです。しかしそれを創価学会では「信心の功徳」と会員に呼ばせています。これでは「現世利益の宗教」と呼ばれても致し方ないでよう。
確かに人生不遇の時、そういった御利益を求めてしまう事を否定はしません。私自身も過去にそういった事を「信心の功徳」と信じて必死に創価学会の指導に依存した経験はあります。そもそも人というのは、それほど強い心を持ち合わせても居ないので、そういう事に縋り付いてしまう事もあるでしょう。
人の心とは「祈りを叶える」という能力を潜在的には持ち合わせているようです。この事は仏教に於いても華厳経という経典に「心如工画師」という言葉で説いていたり、法華経にある「一念三千」という法門も、それを指しているのです。
恐らく人は「祈り(思考)」を顕現させるという能力を持っていて、どの様な宗教であっても「信じる」という事からこの能力を発動する事が出来るのす。だから多くの宗教では「奇跡体験」という事が起きると思いますし、これは何も創価学会や特定の宗教の専売特許ではありません。
問題なのは、そういった人が根源的に持ち合わせて居る能力を多くの宗教は我田引水で、自分達の宗教によって出すことが出来ると人々に刷り込んでしまうことです。創価学会でもこれは顕著に見えていて、他宗教で得たご利益は「魔の通力によるもので、何れは不幸になる」と言ってたりします。
違うのです。
各々の人達は心の奥底にその能力を秘めていて、信じて祈るという行動を通してその能力は顕現するのです。だから特定の宗教でのみ、その働きが限定されるものではありません。この事を人はまず理解する必要があるのです。
世の大半の宗教は、これを自分達の宗教でのみ引き出せる。要は「祈りを叶えることが出来る」「ご利益を得ることが出来る」と信者に刷り込むことで、その信者を自分達の宗教に縛りつけ、その人の心を組み伏せてしまっています。これは大きな問題です。
これを防ぐには如何にしたらよいか。そこは人々が賢く賢明になる事。詰まる所は六根清浄を得る以外にはありません。そして仏教本来の目的とする功徳とは、そこにこそあると思うのです。この事を仏教により理解したいと言うのであれば、真摯にまずは仏教を学ぶ事をしなければならないでしょう。
日蓮は開目抄の中で述べています。
「此れ外道の極理なり所謂善き外道は五戒十善戒等を持つて有漏の禅定を修し上色無色をきわめ上界を涅槃と立て屈歩虫のごとくせめのぼれども非想天より返つて三悪道に堕つ一人として天に留るものなし」
宗教により幸福を求めるというのは、外道の教えであり、幸福とは無色(非物質的な事)の喜びを求める事であり、それは天界を求める姿勢なのです。「天人は五衰を受く」ではありませんが、単に楽しみや充足感、喜びを求める人生では、その先には苦しみや不運、不遇を超克する様に見えていて、実は何れまた別の苦しみの中に舞い戻ってしまうものです。私は創価学会の中で「信心の確信を得た」という人が、また他の苦難に遭い、そこに舞い戻りいつの間にか組織から消えてしまうという事を多く見てきましたが、それは当に日蓮の言う屈歩虫(シャクトリムシ)の様な姿だと思います。
宗教をやるなとは言いません。しかし宗教をやる目的が「幸福を求める」という事であれば、結果としてそれは無意味な事であり、ある面で自分自身の人生を縛り付ける事にもなる。そういう事を理解しなければなりません。