自燈明・法燈明の考察

無疑曰信と言うこと

 さて、陽気も春らしくなってきました。今日なんかは昼飯買いに近所のスーパーまで歩いて出掛けたのですが、往復二十分程度で汗が滲んできました。最近の気候傾向として、4月末辺りから暑くなるようなんですが、エアコンも暖房から冷房に切り替わりながら、利用していくのでしょう。

 今日の午後、ご高齢の創価学会の会員とTwitterで少しやり取りしました。まあリモート会議の合間を縫っての事ですが、やはり創価学会の信仰者というのは、信じてはいても、あまりにもその信じる内容については無知だと思いました。

 私は過去に立正安国論を数回ほど読み込みました。そこで何時も疑問であった事は、金光明経や大集経を日蓮が多々引用していたことです。なぜこれらの経典をわざわざ引用していたのか、そこがさっぱりわかりませんでした。そこで大乗仏教の発生と伝播の歴史を振り返りながら見返してみたのですが、すると百済(昔の朝鮮)から日本に仏教が流入してから、日本に根付く経過において「鎮護国家の仏教」という観点があり、その鎮護国家の仏教では金光明経や法華経等は「鎮護国家三部経」として尊重され、その経典の威光に頼るべく、これらの講義を儀式として修していた事を知りました。
 この事から考えると、日蓮が立正安国論で述べていたのは、この「鎮護国家の仏教」という考え方を基礎として、当時の幕府や仏教界に対して諌暁を行ったと私は理解したのです。

 「神天上の法門」というのは、その原理そのままですからね。

 そしてこの現代に於いては、この日本独自の仏教観である「鎮護国家の仏教」による内容を、今の世界にそのまま展開したから平和になるとか、社会が安定するなんて事はなく、もっと多面的な視点で捉え、特に国家間の権益や民族間の文化の違い。そして何より過去から続く人類社会と資本の関係を視野に入れて考えないと、そんな議論すら進まないと考えています。

 要は単なる一宗教が拡がった処で、人類社会が平和で安寧になるなんて、単純な事では無いというものです。

 そんな事をTwitterで呟いていた処、仏法とはそんなものではないと、絡んできたのが先の創価学会の方でした。

 まあ各人各様の考え方もあるし、私はそもそもTwitterで議論などしたくは無かったのですが、それでも絡まれてもきたので、それでは貴方の考えている仏教とは何ですか、と質問をしたのです。
 すると南無妙法蓮華経だと言ってきたので、ではそのお題目の意味は何ですかと聞くと、法華経に帰依する事だという。では帰依する法華経には何が書いてあるのですかというと、方便品では諸法実相、如来寿量品には永遠の生命が説かれていると言うのです。
 諸法実相とは方便品には、実相とは仏と仏のみは究め尽くしているとあり、諸法の姿として十如是が書かれているだけ、では実相とは何ですか、と質問するとそれは生命だといい、無量義経の三十四の否定と戸田会長の悟達を展開してきました。
 いやいや無量義経なんてサンスクリット語版もない偽経の疑いもあるし、そもそも法華経には生命とやらが説かれているのですかと質問すると「法華経には説かれていない」と断言。
 あれあれ、法華経に帰依するという題目を唱えているのに、その法華経にも説かれてない事を信じているのかというと、現代科学なんて仏法には関係ないし、仏法と相容れなければ現代科学は捨てるべきだという。そして貴方(私の事)はひねくれ者だと言い出す始末。

 もうここでやり取りは止めました。だって時間の無駄ですからね。

 でも創価学会の活動家が思索している範囲はこの程度の物だと、改めて認識しました。

 このやり取りした方もそうですが、創価学会(これは宗門も同じですが)は勤行で唱えているのに経典に書かれている意味を理解してないんですよね。せめて唱えるなら大枠の意味だけでも理解していて欲しいと思います。

 そもそも読経という行為は、仏の説法の場に居ることを模しているわけで、経典を仏の代わりに読むという意義があるでしょう。だったら内容知らないとダメですよね。知らないで読んでいるのは、呪文を唱えていることに等しく、それでは正確に仏教の意義すら理解していないという事になるのではありませんか?

 そういう基本的な事も行わず、それを創価学会では当然教えもしないで、手前勝手な解釈ばかりを教え込み、それを信じる事が大事なんだと刷り込んでいたから、結果として創価学会の活動家は信仰となると、全てに思考が停止してしまい、あんな公明党なんて平気で支援なんかしてしまうんですよね。

 創価学会では「須梨槃特(すりはんどく)」の信心が大事だとか教えたりしますが、彼は自分でも頭が悪く要領も悪い、だから釈迦が教えた「塵を払わん垢を除かん」とだけ唱えながら、必死に釈迦の言うとおりに掃除に打ち込みました。でもそれは何も考えるな、ではなく彼でも認識できる範囲の言葉を釈迦は与え、須梨槃特がそれを修行の中で必死に考えたからこそ、阿羅漢果を得られたという話だと私は思っています。

 「無疑曰信(疑いなく信じる)」というのは、とてもキレイな言葉に思えますが、思考停止で信じろと言うわけでは無いのですけどね。

 まあ特に先程のご高齢な方は、創価学会に教わったまま、あの年齢になるまで来てしまったので、今更そんな事も考えられないと思いますけどね。でも残念なことだと思いました。


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