自燈明・法燈明の考察

人生の終焉について思う事

 さて、私が昨年末から年明けに入院して手術を受けたことは、前の記事に書きましたが、ここ最近の医学の進歩というのを改めて実感しました。一昔前であれば、手術と言っても大きなキズが残るものが、ロボット支援の腹腔鏡下手術で小さなキズで済み、その分、社会復帰を短期間に遂げる事が出来ました。

 そんな年末年始を過ぎた頃、あのYMOの高橋幸宏さんが亡くなったという事を知りました。享年70歳。

 YMOと言えば私が中学生の時、テクノサウンドには大きな衝撃を受けて、当時の私はなけなしのお小遣いをはたいてYMOのアルバムカセットを購入して聞きました。このYMOの天才的なドラマーであった高橋さんが亡くなったニュースでは、様々な事を考えさせられました。

 そう言えばYMOの坂本龍一さんも、ガンで闘病生活をされていた事を聞いていまして、とうとう私の世代もそういう世代に入って来たという事なんですよね。

 人は無限な時間を生きていければ良いのかもしれませんが、誰しもが有限な時間の中、人生を生きています。誰しもがこの世界に生まれ出た瞬間から、自分自身の死という事に向けて進んでいる訳で、そこには例外は一人として存在しません。

 この有名人以外にも、私が若い頃に一緒に学会活動に励んだ友人も、今から十年近く前に鬼籍に入りましたし、先日はその創価学会の幹部で、私が創価学会の活動から離れた後も、私を「金づる」だと公言していた壮年部の幹部であった先輩も鬼籍に入った事を先日耳にしました。

 仏教とはこの人生は「四苦八苦の世界」と呼び、そこからの解脱を説いていますが、この苦悩の中の「死苦」から逃れる事は至難の業なのかもしれません。私は仏教を「死を超克するのが目的」の教えと捉えていますが、どの様にしたら超克出来るのか、今でもよく解っていません。

 まあ在家で、それほど学んでいないから当然かもしれませんね。

 私も今回の病の中で、昨年九月から今に至るまで、「自分の死」という事と自分なりに対峙をさせられました。そこでは初め「自分がこの世界から消えてしまう」という根源的で漠然とした大きな不安や、それと共に、もし自分がこの世界に居なくなってしまった時、残された家族や友人はどの様に思うのだろうか。また家族の生活は大丈夫なのだろうか。様々な事を、自分自身の中で煩悶してきました。

 そこで感じたというか、考えた事なのですが、「死」という事についての恐怖感と言うのは、自分自身がこの人生を生きて来た「慣性力」に関連して発生するものなのでは無いかという事です。例えば車でもそうですが、動き出すにはそれなりに力と労力が必要となりますが、その動き出した車を止める時には、ブレーキには大きな負担を掛けますし、道路の路面とタイヤの間にも大きな摩擦力が必要となります。
 それと同様に、人生、この世界に「おギャー」と産声を上げた瞬間から、「這えば立て、立てば歩めの親心」では無いですが、生きて行く為に私達は様々な事の挑戦し、様々なものをこの世界で獲得して、それによってこの世界で生きて行きます。しかし「死」を迎えると、嫌が応にもそれら得て来たものを手放し、動きを止めなくてはなりません。そこには様々な摩擦や葛藤が生まれる事は当然の帰結であり、その摩擦や葛藤を私達の心は「苦悩」として感受していくのではないでしょうか。

 もし「死」に纏わる「死苦」を軽くしようとすれば、それはこの人生の「慣性力」を極力小さくしなければなりません。苦悩には仏教でいう「色心(肉体と心)」の二つがあります。肉体の受ける苦悩については、医療によらなければならない事もありますが、過去に多くの死を看取ったキュブラー・ロス女史によれば、この肉体が感受する苦悩の多くは精神的な事に起因して、肉体の上に顕れるという事を述べていました。そうであれば、人生の晩年に向かうにあたり、心構えというか、それに向けた精神的な準備をする事で、ある程度は軽減できるのかもしれませんね。
 ただ精神的な苦悩の事を考えた時、私たちはやはりどこかのタイミングで、この世界に自分自身が持っている執着という事を、少しでも軽くしていく必要があるのではないかと思ったのです。具体的な例を挙げれば、昨今言われている「終活」という事と「断捨離」というのが、それに近しい行動になるのかもしれません。

 それにより、この人生の中にある「慣性力」を減らす事が出来れば、少しでも「死苦」というのは軽減できるのかもしれません。

 そしてその辺りの考え方の一つとしては、原始仏教で説かれている「三惑巳断」という様な、要はこの世界の実相に眼を凝らし、この世界への執着を断ち切るという視点も必要なのではないかと感じたのです。

 「戦いきる事が幸福」
 「広宣流布の組織に尽くしぬく事が幸福」
 「正しい教えに沿って生きて行く事が幸福」

 そんな美辞麗句が、一部の宗教では多く見受けられたりするのですが、それはかなり違うのではないかと思うのです。それこそ逆にこの世界の実相を理解する事も出来ず、下手をすれば人生への執着を増加させてしまう事になるのではないでしょうか。

 ふとそんな事を考えてしまいました。


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コメント一覧

perfectwin
>執着を断ち切るという視点も必要なのではないかと感じたのです
仰る通りではないでしょうか。

よく言われてることかと思いますが、「幸福でもなく幸福でないのでもない」のが真理なのかなと思っています。
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