これからの文は私見ですので、途中で読みたくなくなったら止めてね。
あたらしあらしの放送をリアルタイムで見れなかったひがみなのか
違和感をぬぐえず。
与えられたプレッシャーは
潤様の8分間の長せりふ、ほぼひとり芝居、たった一日の稽古。
演出は名だたる重鎮、共演は大女優。
お芝居を生活の糧とする人なら
考えない企画と、前からどこかで見知っていたけれど
やはり、そうだと思う。
舞台とは臨場感。
それに尽きる、と思う。
同じ内容でも、回が違えば役者さんの、息も体調もリズムも違ってくる。
だから、何度も演じるうちに、削ぎ落とされるもの、生まれてくるものがある。
一方、観客からすれば
三週間かけようが、一日しか時間がなかろうが
できたものを見る、という点では同じ。
潤様の今回の8分間の舞台は、お芝居のスタートを見せたに過ぎない。
役者ならせりふが入っていて当然。
だから、言ってみれば、
松本潤の持つ頭脳と、集中力、そして仕事にかけるポテンシャルの高さ、
これらをバラエティのスタッフは試し、
潤様は彼自身の力によって
それらを証明して見せた、ということだ。
私の感じる違和感とは
「それが、何なんだ、これは公開テストだったのか。」
この映像を動画サイトで見て、
自宅の録画でまた見て
ずっと自問自答しているが
この潤様の挑戦で、一番、得をしたのは、
その場で観れた、観客、スタッフではないのか。
彼の緊張と観ている自分たちの緊張と、
仕事をやりとげた達成感。
観客のスタンディングは紛れもなく感動に溢れていた。
一字一句間違えず、最後まで演じた。
緊張は成功によって感動に変わった。
次に得したのは、リアルタイムで放送を観た人たち。
やはり、緊張と心配もあるだろう。
成功した後はtwitterでも賞賛のあらしだった。
それらを知った上で見た私がバカだったのか、
どうしても、これを企画して遂行した側の、視点を感じてしまう。
ギリギリのラインで、出来るかどうかを試す、
そして、おそらく松本潤が努力とポテンシャルの塊のような人物とわかっていての演出だ。
観ている視聴者は、知らないうちに固唾を呑んで見守ってしまう。
でも、そうした多少の意地の悪ささえも、
松本潤という人は、感動に変えてお返ししてしまうのだ。
熨斗をつけて、返すように
相手を恐縮させてしまうのだ。
何故なら
自らに厳しい姿勢で、妥協せず、
加えて天に与えられた華と才能で
観る人の心を動かしてしまうから。
だからこそ、潤様が言っていたように、
バラエティでやることじゃないと思う。
願わくば、本当のプロフェッショナルな人と、
プロフェッショナルな場所で
再び挑戦してほしい。
松本潤の凄さって、
暗記能力やプレッシャーに勝つ意思の強さだけではないんだ、いや
もちろん、それがあるからこその松本潤なのだけれど、
その先にある何か。
見たことのないモノを見せてくれる、
そこにひれ伏すような魅力がある、それこそが松本潤だと思っている。
荒野の新宿新次、昨年の吹奏楽部の指揮もそうだった。
あの人に痺れて、ひれ伏すような時間に
また浸りたい。
それが私が恋焦がれる贅沢な時間。