金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

縄文時代の記録

縄文時代草創期に縄文人は弓矢を発明して、石鏃を開発、テグスを開発して、釣り漁を開始した。
ここまでは草創期の発明、ものの開発である、その経緯は隆起線文土器、爪形文土器、多縄文土器、回転縄文土器、撚糸文土器に記録していたものと思う。


しかし後期旧石器以後、すばしこい小型動物を獲るための、弓矢の発明までには、長い期間が掛り、そのため植物から食料を得ることを始めた。それまでの籠では漏れてしまうような細かい種であるマメ類の採集を可能とする土器を発明して、マメ類を採集した。さらにそれを播いて栽培を始めていた、それは豆粒文土器に記録していた。


この供献土器は農耕開始の記録では無いでしょうか
その後それを作物の性質に応じて時期を決め種蒔きをしより良く収穫するために
太陽暦を開発した
これは縄文時代早期であり、ここから動物と違う世界、過去現在未来を見ることが出来るようになった
ここからが文明の始まりである
鮭の遡上回帰漁、貝塚の形成、植物特にマメ類の栽培、全て暦によるものである。
それは宇宙の開発であり、農耕の開始である。


ヤブツルアズキ アズキの原種とされる 調理しやすく、食味も良い

 

ツルマメ  大豆の原種とされる

 

2022.12.19 追記しました
その後縄文中期に 3波状突起口縁の土器が造られていたこと、土偶にも 3を示す造形があること、土器の模様でも 3を示す浮彫があることなどが分かってきた。縄文中期のこの 3を示す多くの遺物は 45日を1/3とする計算が可能となり、二十四節気の暦を完成して、海辺の太陰暦地域と内陸 太陽暦地域との暦のシンクロが可能となり人々の交流が容易となったものと考える。縄文早期の暦は半年四分暦とし始まり、縄文前期には8,12波状突起口縁の土器があるので、ここで一年暦を採用したと考える。九州の倭人には縄文時代の暦は伝わっていなかった、縄文早期の半年暦がチャイナに伝わり、それを倭人が受け継いでいたものではないかと考える。

椎葉村には焼き畑農耕を受け継いでいる人が居るそうなので、縄文人は中山間に残り、倭人と文化が違っていたのだろうか。

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

 一方,日本のダイズ属には,野生のツルマメ(Glycine max subsp. soja) と 栽 培 ダ イ ズ(Glycine max subsp. max),両者の特性をもつ雑種が存在する。
 日本列島で最も古いダイズ属の試料は,宮崎県王子山遺跡の縄文時代草創期のツルマメで,その利用が今から約13000 年前に開始されていることが明らかにされている 3)。

縄文時代早期以降,全国でツルマメ型の検出が増加するが,縄文時代中期になると,明らかに野生ツルマメよりも大型の種子が目立つようになる。このことから,遅くとも縄文時代中期には,栽培ダイズが存在した可能性が高まってきた。
 ササゲ属アズキ亜属は,アジアヴィグナ(The Asian Vigna)ともいわれ,友岡らによる研究では,3 節 21 種類が存在し,この内 6 種については栽培型が存在することが明らかにされている 4)。筆者は,現生 21 種類のアジアヴィグナと縄文時代の土器から検出されたアズキ型の種子圧痕の形態や臍へそ構造の比較を行い,それらが植物種としてのアズキ(Vigna angularis)であると特定した 5)。
 アズキには,野生種であるヤブツルアズキ(Vigna angularis var. nipponensis)と栽培アズキ(Vigna angularis var. angularis),両者の雑種が現在でも知られている。
 縄文時代早期以降継続的に検出されるアズキ型の種子を比較すると,ダイズ属と同じように縄文時代中期以降,ヤブツルアズキより大型の種子が混在し,増加することが明らかとなってきた。
図 2 縄文時代のシソ属果実比較
果実の中には,大型のエゴマ,小型のシソなどが含まれる。

図 3 縄文土器から検出されたダイズ属の種子圧痕

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『見えないものを見る「抽象の目」――「具体の谷」からの脱出 』(著:細谷 功/中公新書ラクレ)
c 婦人公論.jp
認知革命という「見えない革命」
同書では「見たことも、触れたことも、匂いも嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、私たちの知るかぎりではサピエンスだけだ」と述べられています。

まさにこれは、具体的なものではない抽象概念をホモ・サピエンスが手に入れ、『サピエンス全史』で人間の知性の夜明けとして語られている認知革命を指していると思われます。

認知革命とは、ある意味抽象化革命であり、これがホモ・サピエンスをホモ・サピエンスたらしめるために重要な役割を果たしていたことがわかります。
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■装飾を施す
土器に装飾を施すことについて、藤森栄一氏は『縄文農耕論』のなかで「煮ること蒸すことによって生をたたれ、人々の命の糧となった実が、また新しい命となって蘇ってくることに対する、切実な願いからではないだろうか。……
植物を主体とするかれらの生命の糧、またはそのいのち自体の、いくらでもふえてゆく祈りにつらなるものだろう。」と説明しています。貯蔵や煮炊きすることで新たな食糧を作りだす器に、豊穣や再生の祈りを込めたのは必然的であったかもしれません。
このような土器が出現した背景に、縄文時代の人々の共同生活化が挙げられています。
狩猟採集などに際し、集団で行動することで仲間意識が芽生え、結びつきを強めるための手段として祭が行われるようになった、その際に身近な道具として土器が使用されたとするものです。
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縄文の思考 (ちくま新書) 縄文の思考 (ちくま新書)
(2008/04)
小林 達雄
モースは、縄文土器は器形と文様が無限とも言うほどにバラエティーに富み、口縁が突起をもったり、波状にうねったりする自在さに驚きを隠さなかった。

突起こそが縄文土器を縄文土器たらしめている必須の属性である。
そもそも、突起が縄文土器の歴史に登場するのは草創期の最古の土器群の中にまで遡り、新潟県室谷洞窟の多縄文系土器には明瞭な波状口緑もある。

しかし、突起と波状口緑は順調に継承、発達することはなかった。
やがて早期に入ってからも、その初頭の撚糸文系土器は一切突起を付けなかった。

中葉の押型文土器および貝殻沈線文系土器に現われた突起が後続の土器様式に継承され、それ以降縄文土器の主要な属性へと成長し続けるのであった。

ともあれ、容器は突起など必要とはせず、疑いもなく余計な代物で、あること自体がモノの出し入れに邪魔にさえなっている。
その突起を縄文土器は口緑に大きく立ち上がらせて泰然自若としている。
また、縄文土器が底から口を結ぶ器壁に不必要なほどに変化をみせるプロポーションは、もう一つの際立った特徴である。
すぐに倒れて、せっかくの内容物が外にこぼれ出てしまいかねず、容器としての本分を度外視しているのだ。
それに輪をかけて、これでもかと言わんばかりの大仰な突起をかぶせる。
なかでも中期の勝坂式や曾利式、火焔土器の各様式はもう常軌を逸している。

縄文土器は土器の造形において、とくに世界に冠たる独自で個性豊かな展開をみせたのだ。
改めてこの事実に目をとめたのが岡本太郎で、「ここに日本がある」と叫ばしめた。
器の形態全体のプロポーションの異常なまでのバラエティーと、その大仰な突起は容れ物の城を超えており、「容器放れ」した性格を矯正しょうとする素振りさえ見せず平然としている。

縄文土器とはそういう性格のものなのである。
縄文土器は、飾って、眺めるために作られたのでは勿論ない。
土器の内外面には、しばしば食物の残り滓が焦げついていたり、煤の付着や火熱による二次的な変色が底部にみられ、食物の煮炊き用に供されたことを物語っている。
縄文土器の草創期前半では土器の製作量はそれほど多くはなかったが、次の早期になると、たちまち製作量は増加し、遺跡には著しい数が残されるようになった。

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 ぼくはかつて小林さんが勝坂式土器を手にしながら、その波状文の6つの山が一つの視野では見えなくなっていて、土器をまわすことによって初めてその意図があらわれてくるように作られているんですよと説明されたとき、アッと声をあげたものだった。そのとき小林さんは、「きっとここには物語だけではなく、それを歌ったり語ったりするためのメロディもひそんでいたんでしょうね」と言っていた。
 その後、小林さんはこのような物語土器には、各地にそれぞれの「流儀」があること、その流儀のちがいこそが「クニ」の単位であったのではないかということも展望していった。
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『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』
(ユヴァル・ノア・ハラリ 著, 柴田裕之 翻訳、河出書房新社)
 ただ、歴史書としては、三つの点で特筆すべきものがあると思った。

 まず、本書の冒頭にある「歴史年表」。人類の歴史のあらましが、ひと目でわかる。これだけでも、学習に役立つ。

 「135億年前、物質とエネルギーが現れる。物理的現象の始まり。原子と分子が現れる。化学的現象の始まり。」という記述から始まる。やがて地球という惑星が形成され、38億年前に生物が出現する。「生物学的現象の始まり」である。

 250万年前にいたってようやく、「アフリカでホモ(ヒト)属が進化する」。その後、異なる人類種が進化するなか、本書の”主人公”であるホモ・サピエンスが東アフリカに登場するのは、20万年前である。

 7万年前に虚構の言語が現れ、認知革命が起こる。これが、「歴史的現象の始まり」である。同時に、ホモ・サピエンスがアフリカ大陸の外へ拡がっていく。

 1万2000年前に農業革命、500年前に科学革命が起こり、ヨーロッパ人の海洋征服とともに、「地球が単一の歴史的領域となる」。

 200年前に産業革命が起こり、「家族とコミュニティが国家と市場に取って代わられる」。「動植物の大規模な絶滅が起こる」。続いて、「今日」、「未来」という歴史区分がある。

 ここには冒頭3ページ分の年表の一部を拾っただけだが、人類史を概観するにあたって、物質とエネルギーの出現から説き起こし、生命の知的設計や「超人」との交代にまでいたる語りのスケールの大きさが、歴史書としては目新しいことがわかるだろう。

 従来の歴史学の枠を超え、最新の科学的知見をもふまえて、いわば文理融合の視点でホモ・サピエンスをとらえたのは、(科学者の視点からは当たり前のように思うが)、歴史学では斬新な試みといえるのだろう。

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人類が小麦を栽培したのではなく小麦が人類を家畜化した
 「サピエンス全史 第2部・農業革命」より
2018-07-10
テーマ:ユヴァル・ノア・ハラリ

農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。

むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。
++++そうなのか その通り

では、それは誰の責任だったのか?王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。

「サピエンス全史 第2章・農業革命 第5章・農耕がもたらした繁栄と悲劇」より

我々人類は「農業革命」によって、まんまと小麦や稲等の穀物にしてやられて、文字通り「甘い罠」に嵌められ、穀物達の繁栄の為に過酷な労働を強いられながら、穀物によって養われる「家畜」になったのだ・・・

農業は人類を幸福にしたわけではなかった、むしろ一部の支配層を除き大多数の人類を不幸にした。この見解はジャレド・ダイアモンドから引き継がれたものでしょうが、ハラリはこの農業革命がその後、書記体系・貨幣・階級と差別の社会構造等を産み出していくところまで見事に考察していきます。

ジャレド・ダイアモンドの参照記事↓

ジャレド・ダイアモンド「若い読者のための第三のチンパンジー -人間という動物の進化と未来-」

穀物の「家畜」であるサピエンスの「家畜」となった牛・豚・鶏の悲惨な現状にも言及しています。家畜化したサピエンスと同様、牛・豚・鶏も同じく爆発的にその数を増やしDNA的には成功を収めているとも言えるわけですが、「命」「より良く生きる」という観点からすると、あまりにも酷い状況にあることが良く分かります(この点はかなり詳しく、肉食を一切しないヴィーガンであるハラリが“熱く”解説しています)。

「穀物のおかげ」で我々サピエンスの人口は爆発的に増え、その結果様々な分業が成立して文明化されていくわけですが、大多数の人類にとってはより不幸になっていったのがこの農業革命以後です。

食糧を得る為の労働時間は増え、しかも畑仕事は我々の身体構造上不向きなものが多く、ヘルニアや関節疾患等多くの疾患がもたらされました。

そして、そもそもサピエンスの主食にはならない穀物食による栄養の偏りと不足、天災や虫害等による飢饉、土地・貯蔵食糧他所有物が増えたことにより近隣集落・国家との大規模な戦争の勃発、人口密度増と家畜との共棲による伝染病の蔓延等・・・・・・

まるで良いところがないという印象ですが、では、何故サピエンスは農業を止められなかったのか?

それは何世代にも亘って漸進的に農業化していって以前の生活を思い出せる人間がいなくなった為であり、人口が増えてしまって引き返せなくなった為でもある。

より楽な暮らしを求めたら、大きな苦難を呼び込んでしまった。

もはや後戻りできない状況となり、また、農耕は急速な人口増加を起こすので、周囲の狩猟採集民を数の力で圧倒し、狩猟採集民は逃げ去るか、自らも鋤を手に取り農耕民になるかのどちらかとなり、そうやって「農業化社会」は拡大していき、昔ながらの狩猟採集生活は消えて行った。

(日本には弥生人の農業化に徹底的に抗った縄文人がいました↓)

「アイヌと縄文―もうひとつの日本の歴史」感想

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 昭和23年、藤森栄一は「八ヶ岳西南麓に尖石遺跡を代表とするような大集落遺跡が、ところせましと分布している状態に注目し、この地域には狩りとか植物採集などといった、自然物の獲得だけで生活を支えるような生業、すなわち、食糧採集経済では養いきれないほどの人口があったと推定し、八ヶ岳の火山灰台地という広大な高原を舞台として、原始的な焼畑陸耕が行われていたという意見を発表したのである。」(茅野市史上卷)

 それより以前に、昭和2(1927)年、「大山史前学研究所」創設者の大山柏(おおやま かしわ)が『神奈川県下新磯村字勝坂遺物包含地調査報告』で、原始的な農耕の存在を推測した。

大正15(1926)年、自らが発掘調査した相模原市南区磯部の勝坂遺跡(かっさか)では、立体的な装飾の文様や顔面把手などによって注目をよび、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期の標式土器とされた。同時に共伴した多くの打製石斧が、物を切り割るなどの機能を欠いていたため、土掘り具・石鍬と考え原始農耕論を唱えた。
我が国の考古学史上、極めて重要な研究であった。大山柏は公爵で明治の元老・陸軍大将大山巌の次男であるが、長男高(たかし)が海軍少尉候補生として遠洋航海中の台湾で、乗艦中の巡洋艦松島の爆発事故の巻き添えとなり死亡し、ために大山家を継いでいる。

 こうした背景がありながらも、藤森栄一の「縄文農耕論」は、未だに学界からの厳しい反論と批判が絶えない。その後の縄文遺跡の膨大な発掘結果から、「縄文農耕論」を意識せざるを得なくり、現代では益々、縄文時代を語る際には、ほぼ引用される学説となっている。

 その後も藤森栄一がたずさわった、諏訪郡富士見町の井戸尻遺跡群の研究が着実に実を結び、縄文時代の農耕具の研究が、その学説に実証的な裏付けとなりつつある。諏訪地方でも複数の遺跡からエゴマとおもわれる栽培食物を検出するのに成功している。
諏訪市湖南大熊の荒神山遺跡では、縄文中期の火災住居址から種子状炭化物が発見された。現在栽培されている粟とよく似ていたが粒は大きかった。種子状炭化物の粒子は極めて小さいため、植物の表面細胞に珪酸が多く含まれ、しかも熱に強い珪酸の特質を利用して、その炭化物をさらに炭化させ、光学顕微鏡でその表面細胞の珪酸形骸を観察し、植物の分類分析をする。これが灰像法で、荒神山遺跡の種子状炭化物は「シソよりエゴマの方が高い可能性が認められる」と鑑定された。
その後原村の大石遺跡、同前尾根遺跡でも炭化種子が発見された。大石遺跡の方も同時に同様な報告結果が出た。

 エゴマの原産地は日本でなく中国雲南省の高地と推定され、しかも野生ではできないというから、日本で栽培された可能性が高い。エゴマは日本最古の油脂植物で、1万年~5,500年前の縄文時代から作られ食べられてきたようだ。エゴマが油として使われるようになったのは平安時代初期で、山城国の大山崎神宮宮司がエゴマから油を搾ったことに始まると言う。諏訪地方ではエゴマを磨り潰し砂糖を加え、餅に付けて食べる。

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循環型農法焼畑
 森林と農林業の調和が現在も維持されていると世界的に評価され、椎葉村を含む高千穂郷・椎葉山地域は2015年に世界農業遺産に認定されました。その立役者となったのが、椎葉村で縄文時代から絶えずに続けられている焼畑です。日本古来の農法を5000年前から守り継承してきた向山地区の椎葉勝さん一家に会いに行きました。
 焼畑は8月上旬、天気の良い乾燥した日を選び山の神にお神酒をあげて、「火入れの唱え言」を口にします。厳かな儀式とともに火入れをし、焼き払ったあとは地面がまだ燻っているところに種をまきます。
 1年目はそば、2年目にひえやあわ、3年目は小豆、4年目は大豆といった具合に輪作栽培。その後、約30年の休閑期間を設けて森林の力を回復させ、再び焼畑を行う循環的な農法です。
 「地面の熱が800度まで上がることで、10cm下の埋土種子が目覚めるんです。焼くことは森の再生、地域活性化、人間の心を入れ替えることでもあるんですよ」と、椎葉勝さんは次世代への継承を目指します。


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