金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

金生遺跡がなぜ設けられたのか

縄文前期の遺跡からは「二至」が知られていたことは確実だ。
「二至二分」が知られていたことは、縄文中期の遺跡から知ることが出来る。
こうした暦の歴史の経緯から、縄文中期から後期初め頃までには、「四立」、二十四「節気」の暦が考案されたと推定することは難しいことではないようだ。
ここで使用する暦の用語としては、後のチャイナの用語を使用することになるものの、実態は変らないものだったはず。
縄文人の知性能力は縄文中期土器の造形や石器の加工能力などから見ても、現代人と差は無いとされていることは間違いないものと思う。
 縄文人による想像を超える長期の太陽観測と月の満ち欠けの観測により二十四「節気」の暦と「太陰暦」は縄文中期末にはその開発は完成していたものと思う。
この知識を基にして暦作りのための天文台を設置することが計画されただろう。
その立地探しが長期に行われて、地形的にも、気候的にも、天候からも快晴の多いこの地域が適地として選定された。
太陽観測のためには、日の出には東の適切な形の山と、西の日没観測の山があることが求められる。それを満たすのが現在の金生遺跡の立地である。
金生遺跡での「立春」観測という天文台としての機能は、二十四「節気」の暦作成のためという意外には考えられないと思う。

       地図はお借りしました

長期に亘る太陽暦の正確性を保つのには直接の太陽観測以外にはない、それを明確に示す遺跡は、これまでの所、縄文時代の金生遺跡以外には世界の何処にもないのではないか。
もし世界の何処かにある遺跡を知っている方がいたら是非教えていただきたいです。

引用ーーーーーー

◆ストーンヘンジ(紀元前2000年頃)と天体運行について 
恒星が徐々にその位置を変えるのに対して、黄道の傾き約24度は、ほぼ一定している。 つまり、太陽の南北の動きも年々歳々、何千年経過しようと変化しない。 4000余年も前に建てられて、主軸が日出の北限の方向を示すように定められたストーンヘンジが、今もって北限の方向を示すのはこのためです。 実は黄道の傾きもゆっくりとではあるが変化しているのに、太陽が今でもストーンヘンジと整列線をなすのは、ヒール・ストーンがちょうど具合のいい方向にかしぐ傾向を見せているためです。 

◆巨石群と北極星との関係
世界中には星の動きによって1年を測ったと言われる例がいくつかあります。
古代バビロニアは太陰太陽暦を用いながら春分の頃のカペラ(ぎょしゃ座のα星)が現れる時期によって1年の長さを測っていました。 
また、エジプトでは古王国時代(B.C.2900~B.C.2200頃)、シリウス(おおいぬ座のα星)が、太陽が東から昇る直前に現れる時期を正確に測ることによって、1年が365.25日であることまでも知っていました。 

現在の北極星はポラリス(こぐま座のα星)ですが、地球の歳差運動により北極星は時代と共に変わっていきます。 コンピュータのシミュレーションで古代に遡ってみたところ、紀元前2800年頃にトゥバーン(りゅう座のα星)が北極星の位置にありました。 日本では縄文時代中期です。 古代エジプトでは、ギザのピラミッド内の通気孔がこのトゥバーンの位置を定めていたことはよく知られています。 


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