金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

数の組み合わせ突起の土器

次のような天神山式土器 供献土器は何を示しているのだろうか

3,6
8,6

3,4


これらの数字は何れも太陽暦と太陰暦のキイとなる数字である
暦について何か重要な情報を示しているものと考える
天神山式土器は火焔式土器と同時期とされているようで、内陸と海辺のように、地域が異なるようだ
貝塚などがあるこの地域では、何のために作られたものだろうか

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

■火炎土器の特徴~突起と渦模様の謎~manabu_about01_fig03.jpg
 中期の土器は、火炎土器以外にも、
「円筒土器上層、北筒式、中期大木式、阿玉台式、狢沢式、勝坂式、加曽利E式、曽利式、唐草文系、北関東加曽利E式、五領ヶ台式、新保・新崎式、串田新、大杉谷式、上山田・天神山式、咲畑・醍醐式、舩元・里木式、阿高式」
と数多くの形式が存在していますが、火炎土器には以下のような特長があります。

①器面に縄目文様が一切施されない。
②半裁竹管様(竹を半分に割ったようなもの)の施文具を用いた隆線による文様表現
③器面の文様区画の基本。器体の上下を区画し、胴下半部は筒形、その上に乗る胴上半部は膨らむ。胴上半部:胴下半部=約1:1.3の割合。

 口縁から大きくせり上がる突起はともに4つであり、4以外の数はない。(ただし、火炎土器様式の本拠地に隣接する会津地方においては、突起の数が3をとる例がありる

突起が4つである理由は、明確には分かりませんが、ちわわさん曰く、
「横から見たときのデザイン性に配慮した結果だろう。そうに違いない。」
だそうです。私もそんな気がします(^^;)
縄目文様がなく、粘土紐をくっつけた隆起線、あるいは竹を割ったようなものを用いて器体表面あるいは粘土紐を掘りくぼめた沈線による凹凸のみを利用し、文様区画を明確にしているという点は、火炎土器の間で厳格に守られています。しかし、渦巻のようなS字状やC字状の文様は土器ごとで異なり、全く同じ模様のものはほとんど見つかっていないようです。
ーーーーーーーーーーーーーー

(4)北陸には天神山式土器
 新潟で火焔型土器が作られた時代、北陸は天神山式という別の様式土器を用いる。
渦を巻く半隆起線文で土器全面を飾る土器で、火焔型土器と似る面もあるが、突起は全く別物である。
この天神山式土器の代表が、「奇怪の趣を有するに関わらず、而も原始的工芸の美を留めて、大いに見る可きものがある」「之は藁づと又は蔓にて製する器物をモデルとして製せるものかとも思われる」と評され、バスケット型土器と名付けられた土器である。
 バスケット型土器には、三つの大突起が四つ付いている。三つの山というのに意味があった。四つというのにも何か意味があるのだろう。これを左右に付け、ペタンと貼るのではなくずらして立体感を出す。天神山式土器の中では出色の土器である。

(5)火焔型土器が富山に少ない訳は
 火焔型土器は長岡辺りを主にした信濃川流域に広がっている。桜町遺跡で出土した残片は最西端の出土資料であるが、富山県内では極めて少ない。
 北陸と新潟は、火焔型土器・天神山式土器の直前には共に新崎(にんざき)様式土器を用いる仲間だったのに、なぜ袂を分かったのだろう。
 その答えを「飛騨ブリ街道」に垣間見る。富山湾で揚げられたブリが高山の集積所に渡り飛騨ブリとなるが、それは野麦峠でアルプスを越えて松本へ、松本からは諏訪へ、木曾福島へ、飯田へと行き渡る。江戸時代のことを縄文時代に結びつけるのは唐突だが、新崎土器に似た動きを追うことも可能なのである。
富山・石川は、新崎式期にアルプス越えをして信州と組んだ。ところが新潟はこの時期、信州との接し方が弱い。富山・石川が信州に顔を向けたことで、それぞれの地域意識が強まり、北陸が火焔型土器を受け入れを拒むこととなったのだろうと、仮説として思いを提示する。

4.土器から見た北陸のクニグニ
 中期中ごろ、中部日本の日本海側それぞれの地域の土器は日本全体から見ると一つの仲間だが、その内部ではそれぞれ地域性を主張する。

・新潟の火焔型土器は、口縁を飾る大きな突起、鶏頭冠突起で。

・信州北部から群馬北部の焼町式土器は、大きな円環突起で。

・北陸の天神山式土器は、三山装飾付き円環突起で。
 天神山式土器の旗印三山装飾付き円環突起は、飛騨、石川、富山、糸魚川辺りまでは「おらっちゃは一つの仲間」と、宣言しているのだ。

 縄文時代の人々がそれぞれの地域で結びつき、時には強くその地域性を主張する裏には何があったのだろうか。興味深い事柄ではあるが、私にはその答えの用意はまだできていない。
ーーーーーーーーーーーーーー

 深沢Ⅱ式土器の分布主要範囲は現在のところ、北信地方と新潟県南部地方に中心があり、それは、とりもなおさず縄文中期前葉末から中期中葉初めにかけて定住化の拠点集落がふえ、人の行動もその地域圏に収まりつつあり、地域圏独特の深沢式土器様式が確立したといえる。千曲川中流域包含圏に花開いた文化が深沢式文化圏ともいえようか。
 因みに、かつて、同じ新崎式の文化圏にあった北陸地方中心域では上山田・天神山式といった深沢Ⅱ式とは異なる土器様式が確立してくる。他方、関東や中部高地でも勝坂式土器様式の地域圏が確立し始めていることは周知の事実である。
ーーーーーーーーーーーーーー

釈迦堂遺跡からは各地の土器が出土する。交流の深さを知る。
奥の土器は、大木8b式(東北)、加曾利E式(関東)、天神山式土器(東海)で、
手前左端は、北白川下層式土器破片である。

右手前は「たたき石」  

釈迦堂では、全体で1200個の土器を復元している。縄文早期末、前期、中期、後期初頭と年代も広い。特に中期のものの出土が多い
  
区画文が施されている深鉢土器
器面は区画に分割されることが多い。区画内は対面する面で一対となる場合が多く、区画内には区画文(人体のようなモチーフ)が描かれていたりする。縄文人の深層心理や世界観を知るという  井戸尻式土器(中期中頃)
大きな把手を持ち、土器の正面・背面を重視する。右は、頂部にタル形把手を載く。残念ながら、釈迦堂を代表する水煙文土器(中期後半)は、リフレッシュ中で見れなかった
参考:釈迦堂遺跡博物館 「展示案内」、「縄文土器のメッセージ」
ーーーーーーーーーーーーーー

富山県朝日貝塚
縄文時代中期
高さ37.2cm、直径26.5cm
資料館人類・先史部門(EA. 2228)

古くから縄文土器の優品として知られる深鉢形土器。北陸の中期中葉「上山田式」に属する。
非常に繁縟な文様で器面を埋めつくすが、上部のふくらむ部分に文様のアクセントを置き、円筒形の下半分を同じ文様のリズミカルな繰り返しに統一することにより過度の煩雑さを抑え、バランスを確保している。非対称に位置する大小2個の把手もしゃれた感じに見えるが、実はもともと大1個、小3個、都合4個の把手と4個(?)の小波状突起が点対称の位置に配されていたことが破損部から知られ、これらを復元すると、相当にうるさい口縁装飾になり、全体のイメージも一変するであろう。

次いで全体のプロフィルに注目すると、器体は、内折する口縁部、外反する頚部、円筒形の胴部の3部分に分けられる。この形は上山田式土器において一般的な器形のひとつである。この3部分に対応する3つの文様帯配置は上山田式には少ないものであるが、後述するように、よく見ると、中段の文様と下段の文様はつながっているので、この土器の文様帯は、正確には口縁部の狭い文様帯と以下の胴部文様帯の2つになり、上山田式一般の文様帯配置の規則に外れない。この器形と文様帯に加え、細い刻み線を加えた、隆起線の間を半截竹管による半隆起線で埋めること、交互の深い刻みなどはみなこの型式の特徴的手法である。しかしこの土器を特徴づける、下段を同じ隆起線の繰り返しで埋めつくす装飾はほとんど類例が知られていない。この隆起線は大把手の下の渦巻きに発するもので、この渦巻きの上端から発する隆起線は横に伸びて1周したのち別の渦巻きに入って終わる。下端に発する隆起線は右方向に延びて約10周らせん状に胴部を回って隆起線を篭様に重ねた後、底部に達する。底部を欠損しているため正確な巻数は不明。

上山田式の隆起線は普通、渦巻きに発し少し水平に延びた後、第2の渦巻きを形成して終わる。つまり全体として大きなS字状をなすものが多いが、この土器の場合、延びた隆起線が胴部をらせん状に回って底部にまで達しているのである。

内面を観察すると、この隆起線と隆起線の間の谷に相当する位置にかすかな膨らみが認められ、これもらせん状に回っているが、これは器壁を作る際の巻き上げ成形の痕跡ではなく、文様としての隆起線貼付の際に外側から内側に押されてできた膨らみとみられる。なぜなら、この隆起線は上記のように渦巻きに発し、上から下に向かって巻き付けられ、内面の隆起もこれに対応しているが、それは一般に土器を作る場合の粘土の積上げの方向が下から上であるのと逆である。

この土器の胴部の隆起線の繰り返しは、篭の形象、あるいは器体をつくりあげるときの粘土の輪積みとの関係を思わせるが、上記のような観察から、そのような関係はなく、あくまで装飾として加えられたものと言わなければならない。

この土器を出土した富山県朝日貝塚は北陸地方の代表的な貝塚として知られ、1918年以来6回の発掘調査が行われている。縄文前期と中期の土器を主体とし、縄文後期の土器、弥生土器、古墳時代の土師器も出土している。地点によっては4枚の貝層が認められているが、発掘が古く、記録が不十分で、各貝層に含まれる土器型式や各貝層を構成する貝類など十分明確ではないが、上記4枚の貝層が認められた地点では第3の貝層から縄文前期末の朝日下層式が出土している。今回展示された深鉢形土器は大正13年、柴田常惠らの調査で出土したものらしい。

北陸の縄文土器編年の大網は、九学会連合「能登」の調査の後に山内清男によって示され、石川県の中期中葉に上山田の土器が、富山県の中期中葉に朝日貝塚上層の土器が置かれたが、その後は北陸の中期中葉を「上山田式」で代表させることが多く、とくに富山県については「天神山式」の型式名も用いられた。最近では小島俊彰が北陸の土器を「上山田・天神山式土器様式」の名でまとめた上で5段階に細分している。関東・中部高地の勝坂式に並行する形式である。

(今村啓爾)


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「旅行」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事