この記事は、金生遺跡の日の出観測を始めた初期で、まだ縄文時代の暦知識がどの程度なのか分っていなかったので、立地が太陽観測に適切なことは分ってきたが、配石が暦観測をするような施設であるとは、まだ分っていなかった時期のものである。
2023.01.20 補足しました
こうした情況から、この縄文人の金生遺跡 天文台設置のプロセスを追体験してみる事にしてみます。まず縄文人は金生遺跡の位置をどのようにして設定していたのか再現してみるとすれば
1.縄文人は後期までの4000年の歴史を通して暦の知識を蓄積してきた。
その結果、二至二分、四立、さらに閏年の知識を手に入れることができていた。
2.その後気候の寒冷化に対抗して生活を維持する事が必要となり、そのためにはそれまで以上に暦を正確に確定する事の必要を感じるようになり、新たに天文台を設置するプロジェクトを開始した。 列島各地を巡り立地探索した結果、天文台の立地としては茅が岳と南アルプスがよく見える位置が最適であると判断した。そして日の出と日の入りを観測する施設としては茅が岳と甲斐駒ヶ岳を採用した。
3.次に冬至の日の入りの位置をどこにするか
閏年を配慮して甲斐駒ヶ岳ピークの右肩を冬至の日の入り位置と決め、それが見える延長線を測定し杭打ちをした。
日の入りから決めるのは、日の入り位置の方は見えていた太陽がどの辺りに沈むのか追うことが出来るから、突然出てくる日の出より位置決めしやすいから
次に立春の日の出位置としては、茅が岳のピークに日の出が来る位置を甲斐駒の日の入りで求めたライン上で決定した、この位置が暦観測点の天文台である。
冬至から立春までの日の出位置の移動を見たとき、この茅が岳の右側の山稜の形は太陽観測に最適な形のように感じられる。
4.こうした作業は、自然の天候に左右されるので、晴雨が動きやすい山岳地帯でのこの場所決めには数年から数十年を要したのであろう。
このようにして決められたのが今ある金生遺跡の位置である。
ここでの観測は立冬から立春までの日数をカウントして冬至日を決め、立春から立冬までのカウントから夏至日を決め一年間の日数を数えていたと考える。
閏はどのように観測できるのか今はまだよく分りません。
いずれにしても直接太陽の運行を観測していたから暦で季節とのズレに苦労することは有るはずが無かった。エジプト以来現在の暦に到達するまでの2000年に及ぶ様々な苦労は縄文人の暦4000年には無縁でありませんでした。
しかしそれにより月の周期との調整に苦労するような数学的科学の発展の必要は無く関連する科学は停滞してしまったかも知れない。
さて、そこで4000年前に作られて、40年前に発掘されていたのに、何故調査されずにそれも40年間もの長きに亘り分らずに有ったのかを考えてみた。
その理由はこの天文台が余りにもスマート、賢く作られすぎていたからであろうと思われる。暦を良く理解していなくても安心して生活できる常識的現代人にとっては、この遺跡の有り様は遙かに理解のレベルを超えた存在だったからと思う。
冬至の日の入りの位置を示すのであれば山の一番のピークにセットするはずと考えるのが普通のようですが、ここでは日の入りの位置は山のピークを外した右肩にしていた。
更に冬至の日の出側は山のピークからは大幅に外れた麓だったから、こうした冬至位置の設定からはここの遺跡の縄文人は冬至など考えていなかったものと現代人には思われても仕方ない情況だった。
現代人は二至二分くらいまでは常識なのだが、それ以上になるとそれほど知らないのが常識となっているのでは。立春がなんなのかそれ何という感じではなかろうか。
春分秋分までは考えに入れるとしても四立、立春、立秋までには考えが及ばなかったということは、どうだろうか、反論はありますか、私本人はその通りで分りませんでした。現実に日の出を見るまで、縄文人がそんなことまで考えていたとは思いも寄りませんでした。
縄文人により日の出側は立春が茅が岳のピーク位置にセットされていたため、二至二分の春分程度までの理解ではスコトーマとなっていたものと思う。