世界遺産とされるストーンヘンジは巨大な切石を運搬して立てている。
こうした巨石により大きな遺跡が造られていたことが分っているものの、
これまでの研究で解明されているのは、冬至と夏至が示されているようだと言うことのようです。
太陽暦や天文台と云うよりも冬至や夏至のを祝うための祭祀遺跡と云うことにあるようです。
金生遺跡・大配石は北杜市の茅が岳、飯盛山、甲斐駒ヶ岳・南アルプスといった自然地形をそのまま利用している太陽暦天文台で、その中心に金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設が存在する。
スケールとしてはストーンヘンジよりも遙かに大きい、半径20キロメートルを超えるような巨大な天文台が構想されていた。
北杜市全域が天文台、 金生遺跡・大配石で太陽暦の暦日標識 日の出の山を示していた
しかも飯盛山は自然地形としては考えがたい位置 日の出位置を二カ所も正確に合わせることは難しい にあるので、金生遺跡から見て、立秋の日の出位置に合わせて、縄文時代に築かれた山なのかも知れません。
さらに、茅が岳も甲斐駒ヶ岳も山頂部が太陽観測に合わせて加工されている可能性も考えられます。それはどちらの日の出、日の入りの位置も、窪みを付けているかのように見えるからです。
縄文時代に造られたとされる、三角形の山が各地に見えることからも、山が築かれていた可能性や山容の加工を行っていたことを排除できないと思います。
飯盛山
立秋 日の出 飯盛山 手前の森が遺跡
太陽観測の結果、遺跡からは茅が岳の峰からの立春の日の出が観測されること、飯盛山からは立秋の日の出が観測されること、冬至については、茅が岳の峰から少し下った位置からの日の出が観測できること、そして冬至の日の入りは、甲斐駒ヶ岳の峰に沈む事が分っているという状況が有ります。
こうした日の出位置を決めるためには、太陽暦の暦日を計算することが必須であることから、縄文時代には太陽暦が存在したこと、それは少なくとも四立と後に呼ばれた、八節の暦に対応していること、さらにそれは現代の太陽暦の暦日に一致していることが判明している。
立春と立秋は金生遺跡・大配石にはっきりと石棒で示されていたことが分った。
金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設のもとは、設置時期から見て、縄文中期の 3波状突起口縁の土器の製作された頃に近いものと考えるので、冬至から立春までの日数 45日を 3分割する二十四節気の暦の成立とそのための太陽観測のためのものであると考える。それは太陰暦とシンクロさせるためでもあると考えます。
こうしたことから、北杜市全域の日の出などの観測点と、金生遺跡・大配石での太陽観測施設は、太陽暦観測の天文台として4500年に亘り太陽観測してきた実績から、世界標準時天文台とするのが良いと思う。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
ストーンヘンジと共通点?英国の研究者が語るJOMON
構成 編集委員・宮代栄一2021年5月27日 17時00分
[PR] 世界文化遺産への登録が勧告された北海道・北東北の縄文遺跡。日本の「JOMON」には、どんな価値があるのでしょうか。日本への留学経験もある英国の研究者、サイモン・ケイナーさん=先史考古学=に聞きました。
今回、日本の縄文時代の遺跡の一部が、ユネスコの世界文化遺産にふさわしいと登録を勧告されたことは素晴らしいことだと思います。これらの重要な遺跡についての認識を高め、日本の人々にもこれらの遺跡が人類の共通の歴史にとって重要であることを理解してもらうための素晴らしい機会となると思います。
縄文文化の特色としては、よく言われることですが、採集狩猟民であるにもかかわらず、定住を行っているという点があげられると思います。世界的にみると、中近東やバルト海周辺の先史文化など、同じような特徴を持つ文化は複数認められます。
そんな中で私が考える縄文文化の最大の特色はまず、極めて多彩な土器文化を有していること。
これほど多様な土器型式がある文化を私はほかに知りません。
器の形なども多彩で、これらは縄文の人々が、土器を使った調理などの行為にこだわりを持っていたことを示唆しているのかもしれません。
ヨーロッパの研究者や市民が最も関心を抱くのは、その多彩な土器や土偶の持つ優れた造形性なのです。
写真・図版
サイモン・ケイナーさん
もう一つは樹木の利用を積極的に行っていること。縄文人たちはすでに漆器を使っていましたが、花粉分析からは彼らが早い時期から漆を積極的に利用し、食用として採取されていたクリについても、ある程度、木の管理を行っていた可能性が指摘されています。
縄文時代に関する考古学的な記録は、現代人に、地球上での、多様な暮らしのあり方を考えるきっかけを与えてくれるでしょう。特に「北海道・北東北の縄文遺跡群」に光が当たることで、縄文人たちの物質文化と精神文化のネットワークにもスポットライトが当たることを期待しています。
写真・図版
世界文化遺産にふさわしいか判断する諮問機関の現地調査に備え、関係者が参加して大湯環状列石で行われたリハーサル=2020年7月、秋田県鹿角市
私が特に興味を持っているものの一つがモニュメントです。実は、農耕が行われていない、縄文文化のような社会で、今回登録勧告がなされた大湯環状列石(秋田県鹿角市)のように、石を立て並べる「ストーンサークル」が発見されるのは非常に珍しい。
写真・図版
二つのストーンサークルを主体とした「大湯環状列石」=2021年5月24日、秋田県鹿角市、朝日新聞社機から、池田良撮影
私は現在、日本列島に30カ…
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■ 特定非営利活動法人 国際縄文学協会 概要
かつて、縄文時代は、遅れた原始的な時代のイメージで理解されてきた。縄文時代の人々は、毛皮を着ており、遅れた文化を体現した姿で表現されてきた。
しかし、実際は発掘されたものによって判明した事実が示すとおり、特に縄文時代の女性は色あざやかなイヤリングをし、素敵な腕輪をし、ファッショナブルな麻の衣装をまとっていたオシャレな人々であった。
また、日本の歴史をひもとくと、戦争がなかった素晴らしい時代があったことに気づく。1万2000年以上前から1万年続いた縄文時代と呼ばれる時代の事だ。なんとこの時代の人々は、強大な政治権力を生み出さず、人殺しの武器も作らなかった。だからこそ戦争がなかったのだ。
それだけではない。1万2000年以上前に、当時世界にない薄さ5ミリの土器を作るハイテク技術が存在しており、しかも、ハイテク縄文文化人は、生命を生み出す母性を敬い、老人・子供を大切にし、自然の恵みに感謝し、大自然と融合したエコロジカルで、ロハスな生活を行う人々であった。
さらにいえば、縄文時代の人々は、世界に先駆けて定住生活を始め、家族を作り、和やかでスピリチュアルな生活をしていた。また、個性と共同性のバランスがとれた風通しのよい生活をおくっていたのだ。 縄文文化は、縄文末期の同時代人である孔子ですら熱き憧憬を注いだ、世界に誇りうるハイブランドであった。
国際縄文学協会(IJCC)は、このような縄文文化を深く解明するべく努めようとしている。その解明において、考古学が果たした役割は甚大であった。
しかし、それで十分であったわけではない。それを突破するためには、さらなる創造的冒険の試みが必要であった。
考古学が考古学のみで自足するのではなく、考古学は、歴史学、人類学、民俗学、宗教学、芸術学、神話学等々あらゆる諸学を総合する中で展開してゆかねばならない。IJCCは、それを「縄文学」と名づけ、縄文学を志す人々の結集を求め、IJCCを結成したものである。
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大湯環状列石は、隣接する「野中堂」と「万座」の2つの環状列石と日時計のような特殊組み石から構成されている。
2つの環状列石は外帯と内帯からなる2重の輪である。野中堂の外帯の径が約42m、万座の径は約48mとかなり大規模なもので、両者の距離は90mあり、組石は大きい方の万座では48基、野中堂の方は44基ある。野中堂は後世による破壊がかなりあるが、同時代に作られたようだ。
それぞれの組石の下に墓坑があることから共同墓地と考えられている。縄文時代以後、数千年間に、特に近代以降に頻発する河川護岸工事や庭石需要などのために持ち去られたものも少なからずあり、実際にはもっと多数の組石があった。
大湯環状列石には中央の立石が90kgある日時計状組石がある。この日時計中心部から、「万座」と「野中堂」の環状列石の中心部を結んだ方向は、東西方向から時計回りで約30度ずれている。そのラインの西北西の方向は、ほぼ夏至の日に太陽が沈む位置を示し、反対に逆方向の彼方は、東南東になり冬至の日に太陽が昇る位置に極めて近い。
大湯環状列石の北東には黒又山があり、大湯環状列石からはきれいな円錐形に見える。阿久遺跡における蓼科山の存在を彷彿させる。
大湯環状列石の外側には、集落と呼べるほどの住居が確認されていない。各々の列石の直ぐ外側を囲むように掘立柱建物群が同心円状に展開するが、柱穴が大きく柱も立派過ぎ、また周囲から出土した祭祀用遺物などから、葬送儀礼や太陽を畏敬する儀式を行った「祭祀施設」であったとみられている。