旧石器時代の発見は 相沢忠洋(あいざわただひろ)によるもので、 1929年生-1989年没。
独学で考古学を学び、納豆の行商などをしながら赤城山麓の遺跡を調査し、1946年岩宿遺跡を発見した。
1946年(昭和21年) - 相沢忠洋が赤城山南東の関東ローム層から黒曜石の打製石器を発見。
発見者は、アマチュア考古学者の相沢忠洋氏。切り通しのがけで石器らしきものを見つけ、 3年間かけて調査した末、ついに黒曜石で作られた石槍を採集した。
相沢は岩宿の切り通しの崖面から採取した石器や石片を携行して考古学者を訪ねては赤土 からも石器が出土する事実を説明して回ったが、まともに取り合う学者はいなかった。
1949年 初秋、この石器を相沢から見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)は、同大学助教授杉 原荘介(当時)に連絡し、黒曜石製の両面調整尖頭器や小形石刃などの石器を見せた。
赤土の中から出土するという重大性に気づいて、同年9月11日 - 13日、岩宿の現地で、杉原、 芹沢、岡本勇、相沢ら6人で小発掘(本調査に先立つ予備調査)が行われた。
1949年(昭和24年) - 明治大学教授杉原荘介の主導する調査団によって調査がおこなわれ、日本 における旧石器時代の存在が立証された[† 3][4]。
1949年、当時中学生だった松沢亜生は、住宅地建設現場の掘り返された土の中にたくさんの黒曜石製石器が散乱しているのに気付いた。それを契機して造成作業の合間に大量の石器を採集したという、これが北踊場遺跡発見の始めだった。
その発見に先立って、藤森栄一は、隣接する南踊場遺跡で縄文時代の遺跡を調査していた。
そのことから藤森は、北踊場遺跡の石器も縄文時代の石器と判断してしまった。しかしその後、上ノ平遺跡の発掘調査により、北踊場遺跡の石器も旧石器時代の遺跡であったことが明らかになった。
もしこのとき藤森が、この石器を「旧石器かもしれない」と思って調査をしていれば、旧石器時代の発見者は相沢忠洋ではなく、中学生の松沢亜生になっていた。かもしれないという。
岩宿遺跡の発掘によって旧石器時代の存在が証明されたのは、その北踊場遺跡での石器発見の3ヶ月後のことであった。
民間考古学者相沢忠洋の調査結果に応じ、直ちに当時の明治大学助教授杉原荘介とその研究室員生芹沢長介らが炯眼にも本格的調査を行った。それが初めて考古学界も公認せざるを得ない成果を生み、以後、旧石器時代のおびただしい遺跡の発掘に繋がった。
岩宿遺跡では、発掘によって二つの石器文化が確認された。
下層のものは、岩宿Ⅰ石器文化と呼ばれ、基部を加工したナイフ形石器と刃部を磨いた局部磨製石斧を含む石器群で、3万5000年前の後期旧石器時代初頭のものである(写真)。
上層の岩宿Ⅱ石器文化は切出形ナイフ形石器などを含む後期旧石器時代後半(2万5000年前)の石器群である。 岩宿遺跡の地層は岩宿ドームとして保存され、見学できる。また、出土石器は明治大学博物館および岩宿博物館に展示されている。
局部磨製石斧 主に刃の部分を磨いた石斧。旧石器時代には磨製石器は存在しないといわれていたが、日本の後期旧石器時代初頭にはこの石器が特徴的に存在する。これは世界最初のもののようだ。
切出形ナイフ形石器 切り出しナイフに似た形の石器、後期旧石器時代後半期の初めに特徴的にみられる。
…旧石器時代の人々は多く洞穴や岩陰を住みかとして利用していたことが知られているが、
そうした中にあって少ないながらも住居跡とみられるの遺構が見つかっているのだという。
定住が始まっていたとすれば、二至は分っていたかも知れない、しかし縄文時代草創期にはまだ暦の始まりは想定できないので、暦を知るまでには早期までの長い時間が掛かったのだろうか。
ウクライナ 旧石器時代の住居発見
金生遺跡・大配石の発見は縄文時代末の画期的遺跡とされ 1980年頃であり、相沢忠洋(あいざわただひろ)-1989年に亡くなっていたので、この遺跡についてどのように見えていたのだろうか。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
…旧石器時代の人々は多く洞穴や岩陰を住みかとして利用していたことが知られているが、
そうした中にあって少ないながらも住居跡とみられるの遺構が見つかっている。
約2万年前に遡る神奈川県相模原市の田名向原遺跡(国の史跡)の平地式住居や[18]、
大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の竪穴住居はよく知られている。
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15)北踊場遺跡(諏訪市上諏訪)
北踊場遺跡は、手長神社から水道部を抜けて立石公園に上る道がカーブする丘陵状にある。茶臼山遺跡は桜ケ丘配水池を越えた南にあり、上ノ平遺跡は谷を挟んで南西に位置する。この土地名の踊場は、諏訪地区でも何箇所もあり、坂の途中の平らな高台と言う意味で、全国にも限りなく、この地名がある。
昭和24(1949)年、当時中学生だった松沢亜生は、住宅地建設現場の掘り返された土の中にたくさんの黒曜石製石器が散乱しているのに気付いた。それを契機して藤森始・宮坂光昭ら考古学仲間を誘い、造成作業の合間に大量の石器を採集した。
その発見に先立って、藤森栄一は、隣接する南踊場遺跡で縄文時代の遺跡を調査していた。そのため藤森は、北踊場遺跡の石器も縄文時代の石器と見誤った。 その後、上ノ平遺跡の発掘調査により、北踊場遺跡の石器も旧石器時代の遺跡であったことが明らかになった。
もしこのとき藤森が、この石器を「旧石器かもしれない」と思って調査をしていれば、旧石器時代の発見者は相沢忠洋ではなく、中学生の松沢亜生になっていた。かもしれない
岩宿遺跡の発掘によって旧石器時代の存在が証明されたのは、その北踊場遺跡発見の3ヶ月後のことであった。民間考古学者相沢忠洋の調査結果に応じ、直ちに当時の明治大学助教授杉原荘介とその研究室員生芹沢長介らが炯眼にも本格的調査を行った。それが初めて考古学界も公認せざるを得ない成果を生み、以後、旧石器時代のおびただしい遺跡の発掘に繋がった。
中学生の松沢は石器の形から、縄文時代とは違うといったある程度の判断は出来なかったのだろうか
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1949年(昭和24年)夏、相沢は岩宿の関東ローム層中から明らかに人工品と認められる槍先形石器(黒曜石製の尖頭器)を発見した。相沢は岩宿の切り通しの崖面から採取した石器や石片を携行して考古学者を訪ねては赤土からも石器が出土する事実を説明して回ったが、まともに取り合う学者はいなかった。
この説明のために相沢は桐生から東京までの長距離を自転車で行き来した[2]。 同年初秋、この石器を相沢から見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)は、同大学助教授杉原荘介(当時)に連絡し、黒曜石製の両面調整尖頭器や小形石刃などの石器を見せた。赤土の中から出土するという重大性に気づいて、同年9月11日 - 13日、岩宿の現地で、杉原、芹沢、岡本勇、相沢ら6人で小発掘(本調査に先立つ予備調査)が行われた。そして、11日、降りしきる雨の中をも厭わず掘り続け、杉原の手により、卵形の旧石器が発掘された。後に刃部磨製石斧と名付けられる。9月20日、東京に帰った杉原はこの発掘の結果を主要新聞に発表した。
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1949年7月27日、芹沢長介、縄文時代の研究者宅で偶然相沢忠洋に会い、岩宿の稲荷山の切り通しの赤土(ローム層)の中から石器が出るという話を聞いた。
1949年9月7日、明治大学の杉原荘介の研究室で相沢の資料を見せた。
1949年9月11日~13日、杉原は早速試掘を行、最終日の作業終了直前に両面加工の楕円形握り槌(ハンドアックス)を掘り当てた。
1949年10月2日~9日、本格的発掘調査が開始された。この発掘調査により上層の黄褐色ローム(岩宿Ⅱ文化)と下層の黒褐色層(岩宿Ⅰ文化)の2枚の文化層があることが判明した。さらに、ローム層の上層(表土層)の下の方から稲荷台式土器(当時、縄文時代最古の土器)が発見されて、岩宿Ⅰ・Ⅱ文化の石器群は、1万年以上前の更新世(旧石器時代)の人々の遺跡であると判断された。
しかし、岩宿遺跡=旧石器時代の発見は、容易に認められなかった。地質調査を依頼された二人の研究者の意見が一致しなかった。岩宿遺跡発掘調査と並行して東大人類学教室が栃木県足利郡(現桐生市)普門寺遺跡を発掘して岩宿ローム層は沖積世に属すると結論したが、後に間違いが判明し、岩宿に対する批判の根拠を失った。また、
1949年11月に京都で開催された日本考古学協会第4回総会で岩宿遺跡の発掘調査が報告されたが、誰も問題にしなかった。その後、杉原・芹沢は、つぎつぎと旧石器時代の遺跡を発見し、
1965年にそれらを集大成したときには北海道から九州地方までの旧石器時代の遺跡の数は359ヵ所に上った