徒然なる写真日記

趣味に関する事や、日々の中での出来事を脈絡もなく貼り付けていく絵日記帳ブログです

偕楽園 3/19 好文亭(1)

2014-03-25 21:49:43 | 2014栃木歳時記
3/19 水戸偕楽園


好文亭は何回か見学したことがある。入場料:大人 190円という安さもあるが。 3階からの眺めがいい。
今回は今まで見過ごしてきた部分もじっくりと観察/撮影した。 最近、歴史ある建物とか、日本間の造りや、襖絵、
日本庭園、植栽など細かいところにも興味が沸く。京都でいろいろ見学して目が肥えてきたのかも


偕楽園の正式な入り口である旧来の表門は、敷地の北西側に位置しており、この表門は黒塗り
であることから「黒門」とも呼ばれている
下の門は好文亭入り口の中門


偕楽園の西半分を構成するモウソウチク(孟宗竹)や杉の林がある


好文亭の名前の由来は、晋の武帝の故事「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」により、梅の異名を
「好文木(こうぶんぼく)」といったことから命名されたといわれている




入り口から


二層三階の好文亭と北側の奥御殿からなり、一般に全体を総称して好文亭と呼んでいます
昭和20年の水戸空襲により焼失しましたが、昭和30年から3年かけて復元されたものです


奥御殿は10の部屋からなり、各部屋の名にちなんだ襖絵が描かれている。
戦災によって1度消失してしまった襖絵の復元に携わったのは、東京芸術大学で日本画家の教授と助教授を務めた
須田氏と田中氏。

菊の間と桃の間は、いずれも総板敷きで厨(くりや:食事の準備の場所)として使用された部屋です









つつじの間、桜の間、萩の間は、藩主婦人来亭の際など、お付きの婦人たちの詰め所、休憩室として使用された










萩の間




松の間は奥対面所で、紅葉の間は、次の間である。
藩主婦人や、高貴の方々の座所で、紅葉の間との間には入側をもって隔ててある







斉昭公夫人の貞芳院が明治2年から6年まで「梅の間」を中心に住まわれた。(その後は東京に移られた。)
自来この梅の間は、亭中最貴の室とされている




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