太宰府天満宮
894(はくし白紙)にもどす遣唐使
遣唐使は菅原道真の検討を要すという建言(申し出)で派遣されなくなったとされます。
それ以前に道真は遣唐大使に任じられたが、派遣の検討を要請したまま、出向かなかったようです。
道真さんは地方へ行ったり、外交に出るのが苦手だったのかもしれません。若いころに讃岐守に任じられて、任地へ赴くことが非常に不本意だったと聞きます。
さらに藤原時平の讒言で大宰府へ左遷されるのも非常に残念であったと思われます。
この怨念が雷神となって、京の宮廷に雷が落ちたとして、道真の報復といわれています。
道真公の例外な出世をねたむ人々との確執、中央で活躍できなかった無念などその思いは察するに余りあります。
遣唐使については、すでに盛唐の勢いを失った中国に学ぶところは少なかった。また、そのために京では国風の文化がさかんになったとされます。
ほんとうに良かったのでしょうか?
ただ、筆者の住む福岡では公的な交渉は途絶えても民間の大陸との交易はずっと続いていて、情報はつねに得ていたと思われます。
道真公も大宰府にいて、そんな状況はよくわかっていたと思われます。
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