こんにちは。フォックス淳子@香港です。最近は、中国人も日本人も(その他も)、仕事だとか、将来のためのビジネスチャンス、或いは、己の快楽の事、でなければ、今、目の前に起こっている問題を無視して全く関係のない事にうつつをぬかす「現実逃避派」が増えてしまって、ちょっと寂しいですね。人間が年をとって残る物は、頭脳、そして判断力だけだと思うんですが。
[china 6979] 林彪事件再び
> 林彪事件30年 “密告”の娘が心境
> (産経朝刊一面 2001.09.25)
> http://www.sankei.co.jp/paper/today/itimen/25iti001.htm
無料版では見られない部分に、続きの別の記事がありましたので、ご参考までに。
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林彪事件、娘が心境 重大会話いまだ封印
「だまされた説」の核心部分か
(産経 朝刊社会欄 2001.09.25)
【北京24日=伊藤正】林彪事件は中国共産党史上、最も衝撃的な、なぞに満ちた事件だった。三十年たった今も、新しい著述や証言が相次ぎ、インターネット上で開設されたホームページの朱徳ら十大元帥を取り上げた「記念館」では林彪の「墓」への参拝と書き込みが圧倒的に多く、人々の関心の高さを示している。最重要証人である娘の林立衡さん自身は批判、中傷のあらしにも沈黙を守ってきたが、このほど懇談した際には、事件の見直しに自信を示したのが印象的だった。
事件見直しの第一のポイントは、林彪は自分の意思で逃亡したのかどうかだ。当時、立衡さんとともに北戴河の別荘に数日滞在した弟、林立果の婚約者、張寧さん(米国籍中国人と結婚し米国に在住)が一九九八年に発表した「自己写自己」で、林彪は「強制的に車に乗せられた」説を打ち出し波紋を呼んだ。
これに対し、翌九九年、林彪らが空港に向かう車に同乗、途中で飛び降り難を免れた護衛長の李文普氏が「中華児女」誌で反論を発表。林彪は真っ先にみずから乗車したと明かし、その後、立果に「イルクーツクまではどれほどかかるのか」と尋ねたのを聞いて李氏は「これは謀反」だと確信、飛び降りたという。
この証言は、「強制連行」「だまされて逃亡」と主張する立衡さんには大きな打撃だった。その上、李氏は張寧さんが立衡さんの手先になってでたらめを書いていると矛先を立衡さんに向けた。「中華児女」誌は今年九月号まで、何度も立衡さん批判の文章を発表してきている。
立衡さんはこれについて「李文普の証言には真実の部分もあるが、うそもある」と言い、張寧さんとの関係は完全に否定、彼女の作品を「レベルが低い」と評しただけで、それ以上の話はしなかった。
第二のポイントは、林彪がクーデター計画を知っていたのかどうかだ。「五七一工程」と呼ばれる計画は七一年三月に林立果が中心になって謀議、その後、空軍司令部副処長の于新野が執筆したもので、「林彪政権」樹立が目的だった。
七一年九月初め、毛沢東が南方視察中、地方の軍指導者らに林彪を直接批判する講話をしたのを知った林立果は「決行」を決意、同七日、前日の電話で北京から北戴河に呼んだ立衡さんに計画を初めて明かした。それは(1)毛暗殺(2)広州に別政権樹立(3)国外逃亡-の優先順位だった。立衡さんは即座に反対している。
林彪は翌八日付で「立果、(周)宇馳(空軍弁公室副主任)の命令通りやれ」との「命令書」を書き、これがクーデター計画首謀の証拠にされたが、むろん立衡さんは否定し、「いずれ分かるときがくる」「私だけが知っている事実がある」と含みのある発言をした。
命令書は筆跡鑑定で本物と断定されている。とすれば、立衡さんは二時間に及んだ立果との逃亡前の会話の中で、重大な事実を聞いていた可能性がある。別の名目で命令書を書いてもらったなどの「林彪はだまされた」説を裏付けるものかもしれない。
いずれにせよ、林彪が国外逃亡に加わった事実は否定しがたい。張聶爾氏の優れた近著「風雲“九・一三”」(解放軍出版社)は、林彪は逃亡の前後に毛沢東暗殺計画とその失敗を知り、逃げるほかに道はなかったと推測している。林彪自身がつるし上げを指揮し、監禁先で非業の死を遂げた元国家主席、劉少奇の悲惨な末路を思い浮かべたに違いない。事件にはなお多くのなぞが残っている。
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Junko FOX
[china 6979] 林彪事件再び
> 林彪事件30年 “密告”の娘が心境
> (産経朝刊一面 2001.09.25)
> http://www.sankei.co.jp/paper/today/itimen/25iti001.htm
無料版では見られない部分に、続きの別の記事がありましたので、ご参考までに。
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林彪事件、娘が心境 重大会話いまだ封印
「だまされた説」の核心部分か
(産経 朝刊社会欄 2001.09.25)
【北京24日=伊藤正】林彪事件は中国共産党史上、最も衝撃的な、なぞに満ちた事件だった。三十年たった今も、新しい著述や証言が相次ぎ、インターネット上で開設されたホームページの朱徳ら十大元帥を取り上げた「記念館」では林彪の「墓」への参拝と書き込みが圧倒的に多く、人々の関心の高さを示している。最重要証人である娘の林立衡さん自身は批判、中傷のあらしにも沈黙を守ってきたが、このほど懇談した際には、事件の見直しに自信を示したのが印象的だった。
事件見直しの第一のポイントは、林彪は自分の意思で逃亡したのかどうかだ。当時、立衡さんとともに北戴河の別荘に数日滞在した弟、林立果の婚約者、張寧さん(米国籍中国人と結婚し米国に在住)が一九九八年に発表した「自己写自己」で、林彪は「強制的に車に乗せられた」説を打ち出し波紋を呼んだ。
これに対し、翌九九年、林彪らが空港に向かう車に同乗、途中で飛び降り難を免れた護衛長の李文普氏が「中華児女」誌で反論を発表。林彪は真っ先にみずから乗車したと明かし、その後、立果に「イルクーツクまではどれほどかかるのか」と尋ねたのを聞いて李氏は「これは謀反」だと確信、飛び降りたという。
この証言は、「強制連行」「だまされて逃亡」と主張する立衡さんには大きな打撃だった。その上、李氏は張寧さんが立衡さんの手先になってでたらめを書いていると矛先を立衡さんに向けた。「中華児女」誌は今年九月号まで、何度も立衡さん批判の文章を発表してきている。
立衡さんはこれについて「李文普の証言には真実の部分もあるが、うそもある」と言い、張寧さんとの関係は完全に否定、彼女の作品を「レベルが低い」と評しただけで、それ以上の話はしなかった。
第二のポイントは、林彪がクーデター計画を知っていたのかどうかだ。「五七一工程」と呼ばれる計画は七一年三月に林立果が中心になって謀議、その後、空軍司令部副処長の于新野が執筆したもので、「林彪政権」樹立が目的だった。
七一年九月初め、毛沢東が南方視察中、地方の軍指導者らに林彪を直接批判する講話をしたのを知った林立果は「決行」を決意、同七日、前日の電話で北京から北戴河に呼んだ立衡さんに計画を初めて明かした。それは(1)毛暗殺(2)広州に別政権樹立(3)国外逃亡-の優先順位だった。立衡さんは即座に反対している。
林彪は翌八日付で「立果、(周)宇馳(空軍弁公室副主任)の命令通りやれ」との「命令書」を書き、これがクーデター計画首謀の証拠にされたが、むろん立衡さんは否定し、「いずれ分かるときがくる」「私だけが知っている事実がある」と含みのある発言をした。
命令書は筆跡鑑定で本物と断定されている。とすれば、立衡さんは二時間に及んだ立果との逃亡前の会話の中で、重大な事実を聞いていた可能性がある。別の名目で命令書を書いてもらったなどの「林彪はだまされた」説を裏付けるものかもしれない。
いずれにせよ、林彪が国外逃亡に加わった事実は否定しがたい。張聶爾氏の優れた近著「風雲“九・一三”」(解放軍出版社)は、林彪は逃亡の前後に毛沢東暗殺計画とその失敗を知り、逃げるほかに道はなかったと推測している。林彪自身がつるし上げを指揮し、監禁先で非業の死を遂げた元国家主席、劉少奇の悲惨な末路を思い浮かべたに違いない。事件にはなお多くのなぞが残っている。
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Junko FOX