保育所の戸を開けて中に入ってみると、幸子姉さんと妹さんが掃除をしているところだった。まるで田舎の小学校の分校調の下駄箱の風景を思わせる様な、玄関にある木の板(スノコ…とでも言うのだろうか)に、本当に懐しい郷愁にも似た(想像だけの)ものを感じた。大きな部屋にはピアノや本棚・本箱・玩具箱…等々。それから木の床の上、奥の一角だけには畳が数枚敷き詰めてあった。掃除が終るのを美恵子姉さんが持って来たサーターアンダギーを食べ、インスタント・コーヒーを飲みながら待つ事にした。
保育園・保育所・幼稚園そして小学校と、所謂「先生」と呼ばれる人々との付き合いがこの頃では相当な数になるけれども、実際に彼女達の職場(保育所など)を訪ねてみるのは、つい先日の藤原先生の所に次いで二回目。私にとってのこうした場所の記憶など、もう遥か昔の事なので既に忘却してしまっているが、何となく遠い昔の良き日々を覗いた様な気がした。子供達は純真だ。この上なく愛され、限り無い可能性を保護されなければならない。そしてその為にも、一人の人間としても、全ての意味からも、もっと幼児教育の在り方や社会が成長するべきである筈だ。
その様な気持ちが頭の中を駆け巡る中で、幸子姉さんと再会したのだった。美恵子姉さんと同様に沖縄の人としては嘘みたいに色白の人で、何か理知的と云うのか、何処となくクールさを与える様なイメージの持ち主である。
ここはよく客(友達)の集まる場所だ。別にこれといった話しはしていなかったけれど、幸子姉さんの弟やら友達が来て、次第に増えてゆく子供達と戯んでは帰って行った。
そうこうしているうちに、九時を過ぎた頃であっただろうか、やっとの事で高子姉さんの到着。約束の時間に大幅に遅れた事をとても気にして、あの何とも形容し難い独特の高子スマイルを浮べながら、ウソみたいに小さくなっておどけていた。
若い方の(?)妹さんと弟さんが帰って間も無く、子供達が遊んでいる姿を高視の見物と洒落込んでいた私も、いつの間にか子供達の中へと引き込まれ、良き遊び相手として迎えられていた。
美恵子姉さんとミス・友達嬢が作ったサンドイッチと卵スープを食べる事になった。食パン一本(三斤)全部使ったと云うだけあって相当の量だった。でも、みんなで食べたので結局は完食で終った。
ところでこの沖縄と云う所は、まさに保守的な島国的な心性面が、或る面では強く打ち出されている様に思える。例えば、他所からの移住を試みようとする者にとっては何かアテの無い限り、とても困難と言えるだろう。それは他の土地との比ではない。その事は既に何度も経験済みで良く解っている。
今、私の目の前には那覇の三人のお姉さん達が居る。彼女達はとても素敵な人達だ。情けに深く寛大で、面倒見のいい女性達なのだ。
二年程前の海洋博の頃耳にした『フラー・ナイチャー』などど云う言葉を何処かへ消し去ってくれる。世代間の差…が働いているのだろうか…。
これが再会のシーンであった。もっともっと色々と喋っていたかったのだけれど、なにしろ宿がY.H.なもので余り遅くならない様にと気を配ってもらい、十時頃おやすみの言葉を告げた。タクシーに乗ってY.H.迄美恵子姉さんが送ってくれた。車から降りて、雨が止んだ後の舗道を歩いた僅か数メートル、何とも言えない気分に満たされていた。
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