気の向くままに junne

不本意な時代の流れに迎合せず、
都合に合わせて阿らない生き方を善しとし
その様な人生を追及しています

(’77) 5月11日 (水) 長い一日(#2)

2023年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム
(#2)  笑い話しの様な
午後二時二十五分。大阪駅に着いてY.H.のハンドブックから、今夜の宿となるべく近そうなY.H.を探し出した。園田Y.H.と云う所で、交通の便も良さそうだった。それで阪急電車の乗り場へ足を急がせ(何故急いだのか今でも解らないが)、何かに取り憑かれた様に二時四十分の電車に乗り込んだ。約二十分程で園田駅に着き予約の電話を掛けたところ、何度掛けてもただ呼び出し音が鳴るだけだった。喫茶店に入り時間を潰しながらも何度か電話を試み、また歩き始めながら公衆電話の受話器をとったけれど、依然として誰も出はしなかった。とても、何か嫌な予感がした。それでもとにかくそのままY.H.に直行すべく、ハンドブックに載っているささやかな地図と住所を手掛かりとして訪ねながら歩いたのだけれど、辿り着く迄には相当の時間が掛かった。それと云うのもアテにならない地図のせいだった。何処をどう歩き廻ったのかは判らないが、草臥れた足を引き摺ってやっと辿り着いた…と思いきや、そこは全くひとけの感じられない建物だった。まさかと思いながらも声を掛け呼び鈴を鳴らし続けようとも、返事などは戻って来なかった。まるて夜逃げした後の家の様に。書き留めのハンコを欲しがる郵便屋の様に暫くの間そのまま佇み、次のY.H.を早く探すべきだと考えさせられた。
それで再びハンドブックを取り出し、それを見ながら次の交通機関などを考え、取り急ぎ園田駅迄戻った。都合良くここからの電車の線で兵庫県内に入った所。列車の関係上一度一度乗り継いだけれど、何とかまだ陽のあるうちに改札口を抜けられた。
そこは阪急芦屋川と云う所ですぐ傍からバスがでており、しかし四十五分待たなくてはならなかった。その間にこれから行く予定の奥池Y.H.に電話を掛けたのだか、唖然!先程の園田Y.H.と同じなのである。誰も出ない。何度も何度も嫌になる程繰り返したが、やはり受話器の向うの変化はなかった。ただ呼び出し音が鳴り渡るばかりであった。しかし、それでもバスは来た。そもそもこの時に乗らずに他を探してみれば良かったのだが…。
二十数分間バスは山道を登り続け奥池に着いた。ハイキングには本当に良さそうな所で、フィールド・アスレチックの様な場所も有った。夕日が沈みかける頃、この目はハッキリとY.H.を見詰めていた。気持ちが悪い程ひっそりと静まり返った建物からは、これまた人の居る気配などは感じられなかった。押しても引いても開かないガラス扉の向うに落ちていた物を目にしたその刹那、私は自分の目を疑わずにはいられなかった。そこには新聞紙が、凡そ十日分は有るだろうと云う程落ちていたのだ。その一番上になったものの日付けは1977.5.11.(水)、即ち今日なのだ。また、誰も居なかった。そして今度のは決定的なものだった。この時の気持ちは何と書き表したら良いのだろうか?

疲れ果てて本当に棒の様になり言う事を聞かなくなった足を、何とかバス停迄運び時刻表を見た途端、奇声を上げて私は狂ってしまいそうになってしまった。次のバス迄五十分程も有るではないか。既に辺りは暗くなり、ヒッチハイクをしようにもまるで車の姿などは見えず、ツキの落ちたこの身をただ静寂の淀みの中に、悲嘆のこもった溜め息と共に投じているしかなかった。
しかし、こんな事が何故続いたのだろうか?ハンドブックに拠れば年中無休で、臨時休館は暮れから正月の間だけの筈なのに。初めからスンナリと上手くいく旅ではない事は、この計画を思い付いた時既に判っていた。それでも僅か五日目にしてこんな有り様。全てが単にツキが悪い、不運なのだと言ってしまえるものでもない。

私の失態はまだ続きを誘う。午後七時二十一分。真っ暗な山の彼方から明るい光りがまるでホタルの様に静かに近付き、重々しい響きと共にそれがバスのヘッドライトである事が判った。辺りの静けさとは対象的なものではあったが、その光景はまさに滑り入る様に近付き眼の前で止まったと言える程の、不思議な優しさと喜びに溢れていた。暗闇の山中を急角度に曲りくねった道の、昔しながらの乗合バスを連想させる様な車内の雰囲気を持った二十分間であった。昼間バスに乗り込んだ阪急芦屋川を通り過ぎ、七時四十分、今度は国鉄芦屋駅に降りた。Y.H.に関しては到着時間が遅いのは承知の上で次なる目的地、垂水Y.H.に向かう事にしていた。
実を言うと、こうまでY.H.に裏切られたままでは気が済まないという思いで、今夜は絶対にY.H.に泊まってやろうと思っていたのだ。これも間違いの元だった。時間が無く焦っている時で、まともに所在地を確認する余裕などは無かった。
国鉄線の電車は八時二十分、神戸を通ったな…と思ったら、すぐに兵庫迄来てしまっていた。国鉄芦屋駅を七時五十分に出てからの三十分間に、もう一度Y.H.のハンドブックを読み直しておくべきだった。何と愚かにも電車の路線ミスなのであった。泣くに泣けず、自分の愚かさに愛想が尽き果て嘲笑する気にもなれなかった。もうどうしようもなく数分待った後、仕方なく大阪へ逆戻りした。
九時十五分、改札を出て広い駅の中を『今夜はどうしようか』などと考えながら五分程歩いていると、公衆電話が目の中に飛び込んできた。そこで旭区の住人(榎本栄子)に電話をしてみた。
「地元の住人としての知識を借りたいんだけど」
「なあに?」
「この梅田近辺で安く泊まれる宿、ビジネス・ホテルかなんか知らない?」
「サァ、知らんなぁ。高級ホテルなら知ってるけど、そんなんはアカンのやろ?電話帳なんか出てへんかなぁ?ちょっと見てみたら?」
そう言われる前から私の手はさっと手早く電話帳を捲っていた。丁度その刹那、手頃そうなビジネス・ホテルが目に映り、私はそれをしっかりと捕まえた。栄子にその位置を確認してもらい、タクシーを拾った。

九時三十五分。ビジネス・ホテル関西に着いた。部屋の仕様はバス・トイレ付きと風呂無し(大衆風呂のみでトイレも別)との二種類で、空室状況もあったけれど、確保出来た部屋はバス・トイレ別の安価な方だった。とにかくキーをもらい部屋の前に辿り着き、ドアを開けた途端に吹き出してしまった。何とまあ、そこは二畳間であった。畳一枚分に布団が敷かれてあり、これを汚くしたら(恐らくは)ベツトハウスに毛を生やした様なものになる(のかも知れない)と容易に想像出来た。そしてこんなものが今の私に似合っているのかと思うと、益々惨めな気持ちを抱いては、とても情けなくなってしまった。しかしそれでもこの一夜の宿がとても有り難くも感じた。とにかくホテルとは名ばかりの、笑い話しの様なビジネス・ホテルである。
そして、長い一日であった。

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