気の向くままに junne

不本意な時代の流れに迎合せず、
都合に合わせて阿らない生き方を善しとし
その様な人生を追及しています

(’77)5月15日(日) 関西を離れて

2023年06月13日 | 日記・エッセイ・コラム
5月11日の悲惨な出来事に懲りた事が理由で、何とか早いうちに関西から離れたいと云う気持ちが先走っていた。嫌気が差していたのだ。それで、
12日茨木(大阪)経由で
河原町(京都)・松三Y.H.
13日東山Y.H.
と古都京都を見て回り近付く「葵祭り」を見ずに
14日那覇に戻って来て、いつものY.H.春海荘ではなく那覇Y.H.に泊まった。理由は無い。ただの閃きに従っただけ。その間の日記は書いてあるけれど、ここでは割愛しておく。

(’77)5月15日(日)  (#1)
夜が明けたらなんという事だろうか、深い眠りの世界を漂っている間に、この日本で一番早い梅雨の声が静かに走り来て、せっかく乾きかけていた洗濯物はビチョビチョ…なのであった。そして空には厚い雨雲が、まるで自分の庭を散歩する何処かの大臣の様に悠々と浮かんでいた。降ったりやんだりの雨の中に、今日は動けそうもないと直感した。これ迄の事から早々に連泊の予約を済ませていた。
今日は日曜日。美恵子姉さんは家に居るはずなので、電話を掛けてその事を伝えた。さすがに私の狂気に満ちた行動に慣れたせいかただ笑っていた。そして夕方ここへ来るという事で受話器を置いたのだけど、間もなく話しは180度転換してしまった。
同じ那覇Y.H.に泊まっていた角山(十日町)やオッチャン(兵庫)達と、何がどうなったのか共に石垣へ渡る事になってしまったのだ。考えてみれば無理もない事なのだ。ここ迄来ればいつかは八重山に渡らねばならないという事が、私には運命付けられているのだから…。これは決して弁明などではない。
那覇港迄乗船券を買いに行く時、オッチャン(赤松)がそれに同行した。雨も然程苦にならないくらいのパラつき程度で。たまに降り出すくらいのものだった。

那覇港ロビー。乗船券をこの手に握り、さあ一服したいなぁ…と思ったところでとんだハプニング。
「やあ、ジユン、ジユンじゃない?」
などと呼び止める声が後ろから肩を叩いた。…こんな所で誰か知っている人なんかいたっけかな…と思いつつ振り返ってみると、なんとまあ、意外や意外。テツペイさん(蒲倉)がニタニタとしながらイスに座っているではないか。七日(土)に羽田空港から電話をして以来で、あの時確か私は、
「沖縄へなんか行かない、ましてや竹富なんか…」
などと言っていたのだ。テツペイさんにとっては、本来福岡に居ると思っていた筈の私がこの那覇に居て、偶然にも出会うとは夢にも思わなかった事であろう。無理もない。この私とて同じ心境なのだ。お互いに、
「ねえねえ、どうしちゃったの。何でこんな所に居るの?」
「ちょっと待ってくれよ、それはこっちのセリフだよ」
「どうしてぇ」
「沖縄には行かない?八重山には行かない?福岡に行ってる筈の人間がどうしてここに居るんだろうねえ?博多の話しは一体どうなっちゃったの?」
「えっ、え〜っと、それはさあ…そりゃまあ、え〜っと、うん、それなの。だけど、今年の夏は行けそうもないなぁ、忙しくてさぁ…なんて言っていたのは誰だっけ?」
「ハハハハ…ア〜ア、なんだい、どっちもどっちかい」
「そりゃそうでしょ、私達がさぁ、他所で我慢出来るわけないじゃない」
「ああ、こんな事と判っていたら来るんじゃなかった」
「やっぱり失敗したぁ、もう少し日を延ばせば良かった」
「これで竹富も乱れるなァ…」
などと冗談を飛ばした後、夕方この港から出航する「おきなわ丸」でまた一緒になる迄の数時間を、別々に過ごす事にした。この時、同じ那覇港内でまた数人に出会うように、一日が設けられていた様である。(#2)へ続く

この頃の日記は長めのものが目立っていて、この日のものもそうであった。いくら書き写しているとは言え、一気に書くのは疲れるので文脈とは関わり無く分割する事にする。

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