小説 新坊ちゃん⑧ 歓送迎会
四月の末には数学科の歓送迎会というのがあった。全員参加で欠席は許されないという。わたしは歓迎されるほうだから当然タダだと思っていたがなんと三千円払えと言う。ここでつまらぬことを言うのもいけないと思い素直に払っておいた。一番偉そうにしている頭から油が噴出している年かさの男(北川というのだが思い出したくない名前である)が、乾杯の音頭をとって始まった。皆盛んにわたしに酒を勧める。わたしが飲めないとして断ると最初の内はああそうかと引っ込むがそのうち「なんやと俺の酒が飲めんのか」と絡んでくるには驚いた。俺の酒とは何たる言いぐさか、さっき目の前でわたしも三千円払ったではないかというようなことは思わないようにと自分の心をコントロールした。
わたしは一切酒を呑まない家に育った。はじめ酒飲みは面白い人々だと思っていたがだんだん一緒にいるのが苦痛になってきた。そのうち頭から油噴出している男が猥談を喋り始めた。二、三人が大笑いするが残りは神妙な顔をしていた。もちろんわたしはその残りの中に入っている。頭から油男はその様子を見てさらにレベルの高い猥談をする。笑う人は四、五人に増えた。ああここは笑わないといけないところだと理解してわたしは次の話題のところでは笑った。年に二百数十万の安定した収入を得るためにはえらく手間のかかることである。
宴がたけなわになるころ、頭から油男とその副官であるようなキツネ目の男(加山というのだがこれはもっと思い出したくない男である)が、その場に居ない教諭の悪口を言い始めた。あいつは頭が悪いとか、出世を狙っているようだが無理だろうとか、ついにはあいつは嫁さんは不細工なのを良く辛抱しているなとかもう考えられるありとあらゆる言葉が並べ立てられる。一番ひどかったのは校長は実は婿養子でちゃんと出世しないと家の中でお叱りをうける立場にあるのであるといった内容であった。よくそんなことまで調べがつくもんである。
そのうち今度の職員会議では某という女性教諭をつるし上げようではないかと相談を始めた。某は態度がでかいところがお二人のお気に召さないらしい。そこでちょっとした事務上のミスがあったのを大きく取り上げてこういう風につるし上げをしようと策を練っている。皆の前でやるもんだから陰謀になってない。事前に公開する陰謀というのは語義矛盾であるがお二人は酒の座でそういった陰謀をやっている。
次の職員会議では確かに某さんがつるし上げに会った。人民裁判というコトバがまだ世間に流布されていた時代である。人民裁判を思わせるものがあった。その時の職員会議はひどく長かった。わたしは会議中居眠りをして目覚めたらまだつるし上げが続いていた。
はじめて学校はこんな風になっているのかと頓悟するところがあった。これは大変なところに来てしまった。学校の中はかかわりになりたくない人だらけである。あきらかに普通の社会と違う社会である。仕事の対価として給料があるのではない。この嫌な人々と付き合うからその我慢料として給料が支払われるのである。我慢料としては異様に安い。
これではこの夏休みにあるという職員旅行に参加させられるのが悩みのタネになった。わたしはどうやって夏の職員旅行の参加を断るか、断るときにどういう口実を構えるかに頭を悩まさねばならなくなった。この調子で旅行中二日も三日も猥談と悪口と陰謀と飲酒に付き合うのは御免蒙りたい。
今になってやっと気づいたのだが学校というのはこのような付き合いを強制することで、同僚の心を支配し辞められなくしているのである。宗教と同じ構造を持っている。自分たちは他の人々とは違う考えを持っているという意識、一緒に飲酒するという儀式への参加、他人を悪く言うことでの仲間意識の醸成などがある。宗教集団を抜け出すのは難しいと聞くが果たしてわたしは抜け出すことができるのか。抜け出すとして生活費をどうするのかなど問題山積を感じた。