小説 新坊ちゃん⑰ 教頭八卦をたてる
校長は校長室にこもりっきりで普段は顔を見ないが、教頭は大部屋の職員室の背中に太陽の光の当たる一番いい場所に一日中座っている。こんどの三月に出世しないまま退職だという。尤も土谷君の話によると四月一日に「一日校長」という辞令だけもらって、それ以降「元校長」の肩書がつくのだそうである。実に名前だけのあほらしい制度であると思いきや、この一日校長になったおかげで退職金が相当上がるのだそうである。それなら皆なりたいであろう。そこを見越して教育委員会も仕事をしなかった教頭は一日校長にしないらしい。
話は変わるがわたしの父親はむかし軍曹であったと話していたのでそうだと信じていた。ずーと後のこと父親がなくなったときに親戚のひとにその話をしたら、「兵長」であったはずだという。たぶん終戦時にみんな好きな階級に上げたんだそうである。それでこれをポツダム軍曹というのだそうである。ただし多分退職金には関係しなかったんじゃないのかという話である。それなら元帥大将はちょっと厚かましいとしても少将くらいにしたらよかったのにというと、その人は「風格」がつかないからそれはダメであろうと話していた。
学校または教育委員会というのは旧軍隊と同じ考え方で運営されていることがこのことからもわかる。学校とか教育委員会を組織した人は軍人上がりだったのであろう、他の立て方を知らなかったためにとりあえず軍隊のまねをした。負けたということは、その組織の立て方ではうまく行きませんということが証明されたようなものである。そのまねをわざわざするのは、大相撲でいつも負けている相手にまた負ける手口で戦うのと同じである。新しい勝てる手口を考えないといけないのにである。こんなことをしていたらいずれ日本の教育に大問題が発生するはずである。昔の軍隊の中にも油爺やキツネ目のようなのが居たであろう。黒田の様なのは絶対いたに相違ない。
その教頭であるが、これはなかなか愉快な人で引き出しに筮竹と算木がいつも入っていた。例えば修学旅行の行先について意見が割れたようなとき教頭に相談に行くと、八卦をたててくれるのである。その結果で行先が決まったという話である。
わたしは教頭が算木をひっくり返しているのを見てこれでやろうと考えた。学校を辞めたいのだがかなり不安がある、そこで周易の本(これは湯川秀樹さんの弟さんの書かれた本である。新刊である。)を買ってきて八卦をたてようとした。算木は買わないであのウオーターマンの万年筆で算木と同じ絵を書いてすました。筮竹は、割り箸二十五本を割って五十本にして用いた。割り箸五十本は手の中で転がすというわけにいかないではなはだスマートでないが一応形は整う。しかし卦辞を読んでもやめていいのか悪いのかさっぱり分からないのである。この文章はどっちつかずで、読んだ時の気分でどうとでも解釈できる。二度三度やってみてもあやふやな卦辞が出てくるばかりである。昔のヒトはこんなもの読んで戦争を始めるかどうかよく判断できたものである。というわけで、このやり方は失敗して割り箸の処分に困っただけである。
教頭にはこんな思い出もある。試験中は、生徒はさっさと帰るからこの期間だけ学校のまずいごはんから解放される。車を出してくれる人がいて昼ごはんはおいしいお店を探して食べに行くのだがその帰り道、有名会社の社長さんやプロ野球の選手とか芸能人のお家を外から拝見するということをやった。その中に教頭のお家拝見というのもやった。でかい庄屋さんの家で長屋門がある。家の中には小川が流れていて大きな旅館の様なお家である。あれじゃ掃除が大変じゃないかと思うが、一緒に行った人の説明では女中さんがいるそうである。わたしなら女中さんを雇う代わりに自分で掃除してその分学校の仕事を辞退するところである。なんで女中さんをやとうおカネがあるのに仕事をするのか理解に苦しむ。
その教頭の家のすぐそばに、校長の家があった。何の変哲もない小さなお家で表札が二枚出ていた。校長の苗字と知らない苗字である。一緒に行った人の話では校長は事実上の入り婿であるが、苗字だけは自分の苗字だそうである。あの知らない苗字は奥さんの苗字であって、奥さんのご両親ともまだお元気にあの家に住んでおられるらしい。校長は奥さんにこういわれたそうである。
「給料は全額交際費に使っていいから、その代わり必ず出世して頂戴」
と。
教育委員会の中では交際に気を付け、仲間内でも贈答があるのかもしれないがそんなことをこなしてやっと出世できるようである。仲間内のこととご自分の出世だけを考えているのである、学校の中で油爺一派にいじめを受けている教師がいても我関せずになるのは当然である。うっかり助ければ自分に損が出てくるかもしれない。自分のことが一番大事である。ところが苦しい立場に立たされた方の教師は校長が何とかこの苦しい私を助けてくれるはずと思い込んでいる。その助けをしないのであるから、いずれは恨まれる立場になるだろう。一方の教頭は、生活に何の心配もないお家でのんびりとお仕事をされたと考えられる。いい人生である。それと比べてなんでわたしはこんな苦しい人生なのか。
油爺とキツネ目のお家も見たかったがそれは遠すぎてとうとう見ずに終わった。