小説 新坊ちゃん⑬ 心折れる
どうやら体育の黒田をトップにする集団と、数学の頭から油爺をトップにする二つのグループがあるようだった。ただ両者は全く争わない。黒田派は、巧妙に立ち回って自分に金銭的な利益が発生するようにやっている、かつ管理する対象は生徒であった。自分しかこんなことできないですよとことごとにアピールする。自分がやらないと皆さん苦労しますよとアピールする。一方油爺は同僚の教師のうち気に入らないのをいじめるのが趣味なだけで金銭的の利益は求めていなかった。獲物が違うのであるから争う必要がない。
わたしはどちらかというと同じ教科であることもあるし、わたしの普段の言動から言っても油爺のほうに気を付けねばならなかった。油爺は非体育会系の悪事をかなり目立つ形で働く。だからみんな怖がって油爺には気を遣う。黒田は体育会系の悪事で、生徒を管理するとき「自分がこの汚れ仕事やってやるんだからちょっと優遇しろよな」という脅しをかけて表面は目に見えないけどおそらくは金品を巻き上げているか何らかの優待を受けているのであろう。油爺は平安貴族の朝廷内政治であり、黒田は鎌倉武士団の幕府内政治みたいなもんである。巨大な集団なら陰謀渦巻くとか武力を背景にした何とかがあることは予想されるが、こんな小さい集団で両者棲み分けしている二つのグループが各々陰謀を使ったり脅しを使ったりは驚きである。黒田のように怖い顔をすることによって または油爺のように嫌がらせや皮肉によって またはどうやら校長はこの手を使っているようだがほほえみと一杯飲ませる策によって(わたしは遺憾ながら校長に微笑んでもらったことは一回もない)他人を支配しようとしているのである。そのとばっちりを受けてわたしは心を病んでしまった。しかしだれもそれに気づかないしましてや慰めてもしてくれない。こんな安い給料で心病んではそろばんに合わない。
わたしは、予備校をやめて学校の先生になると言い出した時に人間がダメになるからやめとけと忠告してくれた友人の言葉を思い出した。ダメになるとは何もできなくなるという意味らしいが、その意味がやっと身をもって理解することができた。心病むのである、病むと何もしたくなくなる。特に朝出勤したくなくなる。朝やっとのことで起きるとまず「ゲゲゲの鬼太郎」を見る。朝ごはんは小さな菓子パンくらいしか食べる気が起きない。遅刻寸前にやっと下宿を出る。帰るとすぐに寝る。暗くなるころに起きてまた「ゲゲゲの鬼太郎」を見る。何度か同じものを見てやっといくらか元気が出て晩御飯を食べに行く気になる。この繰り返しをしていた。
九月の文化祭が終わったころ、兼山という音楽の教師がいきなり学校へ来なくなった。わたしは付き合いが一切ないからどうでもいい話だが、生徒のうわさと職員室のうわさを総合すると女生徒に手を出したのがばれたようである。(のちにこれはハニートラップではなかったかとのうわさが流れたが)ばれて本当だったら懲戒免職になるところだが、校長が自己都合退職にしてやるから早くやめろと迫ったようである。自己都合退職なら兼山先生にも退職金がでるし校長自身の勤務評定に傷がつかないで済む。校長も自分の退職金が減るのを恐れていろいろ策を弄するところがある。みんな自分のトクが大事である。
しかしそういう事態は確実にわたしの心をむしばんでいたのである。他の病気なら、世間のヒトは同情を寄せるが心折れる病は同情してくれないことをはじめて知った。わたしも今後病気のヒトに同情することは一切やめにする。
思うに、教育委員会や学校というのはその時々の政権から独立した機関である。時代に応じて改革ができないように法制上なっている。さらに戦後この組織には軍隊に居た人がたちあげたに相違ない。部下の失敗は上司の監督がいけなかったため、ただしうまく立ち回って両者とも責任を問われないようにすることはできる。黒田のように大声を出して他人を管理監督するヒトがいる。はじめそんな組織の立て方をしておいて、そのあと改革が一切ないのである。それでは、後から入ってきたまともな感性を持っている人間は心病むのである。わたしは黒田や油爺やあの校長よりはるかにまともである、だから心病んだと考えている。
わたしは辞める方針はたてていた。早く実行に移したかった。父親は何も言わないだろうが母親の怒りを思うと踏み出せないままであった。夜は悪夢で目覚める、昼間は体がだるくて動かない頭は全く回らない。学校の先生になってからたった数か月で大変な変化である。