映画 ナポレオン
歴史絵巻を期待してその通りであった。もしフランスのこの時代の詳しくエピソードを知っておればもっと楽しめただろうし教訓も得られたかもしれないが遺憾ながら何も知らないで見に行ったので絵巻物を楽しんでどうやって撮影したのかそればっかり考えていた。
ナポレオンの人気はわが国の太閤秀吉と同じであろう。最下層からなりあっがてきた人だから民衆皆は自分と重ね合わせることができ、秀吉の姿を思い浮かべるだけで今の息苦しさを一瞬でも忘れることができる。大名の息子に生まれて努力して領土を三倍にして大大名にしましたというお話より断然太閤秀吉であろう。ナポレオンはそれと同じであろう。
しかし、多分史実通りとは思うがナポレオンは弱虫で嫁さんに翻弄されている。不思議なことに翻弄されている間だけ身分がどんどん上がっていく。縁が切れると途端に駄目になって一番肝心の戦争指揮もダメになって、最後は島流しになる。
我が国では、普通は内助の功とか言って嫁さんと仲睦まじくうまく行っている間だけ身分が上がるという説が流布しているが、西洋では必ずしもそうではないらしい。太閤秀吉も嫁さんとの仲がどうであったか、ついでに淀君との仲が翻弄されていた仲ではなかったか検証してみると面白い話が出るかもである。古くて分からないなら田中角栄は調べられるんじゃないのか。いずれにせよ嫁さんに翻弄されている間だけ出世するというのは、究極の選択であるな。こういうのをファムファタル(運命の女性)というのかもしれない。
軍事の天才が人気があるもんだからと言って政治に手を染めると碌なことがないという教訓とも見ることができる。秀吉も軍事政権であったので人気はあっても政治はうまく行かなかった。源頼朝も軍事政権で、うまく行かないで嫁さんの実家に持って行かれた。弟の義経は軍事の天才と言われたが政治には幼児のようであった。家康は賢くて、政権運営は他のヒトの言うことを聞いたしその子孫によって上手に文治政治に転換することができた。こう見てみると、この映画は軍人のトップが政治に乗り出すと碌なことありませんよという教訓を述べているのかもしれない。今なぜそんな教訓を確認する必要があるのか。
ベトナム戦争の終わったころ「地獄の黙示録」(フランシスコッポラ)が作られた。戦闘シーンのスペクタクルが見ものであるが、その実主人公をGHQのマッカーサー元帥になぞらえていて、彼はその地(ということは日本ということになるが)の王になろうとしていたとの批判を暗にしたとの説がある。(わたしは何度かこの映画を見てあるいはそうかもしれないと思ったことがある。)同様に、このナポレオンは、なにかになぞらえられているはずである。そして最後はこうなりますよというようなことを暗示しているはずである。それが分かるまで何度か見たい映画である。
そんなまだるっこしいことやらないでコロンビア映画やアップルやソニーの皆さん種明かしをしてほしいものです。観客数が少ないのが気になります。多くのヒトが見て様々な議論が湧き上がればいいのではないかと思う一作である。映画は冷戦のはざまで作られている。何かの武器の代わりではないかと密かに思うのである。
もちろん他にも昔と言っても19世紀初頭の戦争があんなローマ時代の戦争みたいな形をとっていたのかとか、戦場であんなおいしそうなもの食べていたのかとか、当時の士官の人種構成はどうなっていたのかとか知りたいことは一杯ある。