吾輩は猫である (角川文庫 昭和37年 460円 )
(角川は岩波のように古くなっても紙が日焼けしないので読みやすい。)
小さいころから何度も読んだ本を再び三たび読んでみた。漱石は落語にはまりすぎて明治19年19歳の時第一高等中学を落第している。落第するほど落語を聴いたことが、この「猫」が面白くて売れた理由だろう。何度読んでも面白いのは、古典落語は落ちが分かっていても面白いのと同じである。
ところが私は漱石のこころとか明暗とかはさっぱり読めない。決心してそれしか持たないで電車に乗っても少し読んで放り出してしまう。このようではもう生涯読むことはなさそうである。漱石後半の大作は、知識人の自意識に悩んで書いたとされる。いわば漱石の自分で行う精神分析の書であるだろう。そういえばフロイトは漱石と全く同時代のヒトである。洋の東西を隔てていても、同じようにヒトの心を分析する達人が出たことは偶然ではあるまい。全世界がそういう時代であったのだろう。
さて、「猫」は自分の自意識を自分で解剖する困難でたぶん苦しい作業の、片手間に書かれたのではないと思う。自分の苦しい心を自力で忘れさせる為、毒消しのつもりでわざとやったことだと思う。ちょうど辛い強行軍をやらされるときに、ちょっとおふざけの軍歌をうたいながら行くようなものである。わたくしは、「猫」を読みながらアハハと笑いながら、漱石の苦しくて孤独な心境を気の毒にと思ってしまう。そんなことしないで(ほかの楽しみ見つけて)楽しくやって行けばよかったのに。何のために憂うるのか。杞憂ではないのか。
「猫」も子規風の写生文で、風景を描写するにはこの文体が大変いいんだけど果たして自分の自意識を自分で解剖するためにはいい文体なのかどうかは疑わしいと思っている。(わたしはフロイトが成功したのは、ドイツ語が精神を分析するのに優れた文体だったからではないか、さらにドイツ語が自然科学の記述にもうまく行く文体だったから自然科学が発展したのではないかと思っている。言葉文体は大事である。)
今回改めて読んでみて、初めて違和感を持った。登場人物に頭にかっと血が上るヒト、または腹を立てて執念深く復讐のチャンスを狙うヒトが一切出てこないのである。登場人物は皆同じような人である。こんないいヒトばっかりなはずがない。一種のパラダイスとして描いたのか。または本当にこの世の投影として「猫」を書いたのか。(これはいくらなんでもありえない気がするが。)怒るヒトは嫌いだから出さなかったのか。ここも謎である。
今頃気が付いたが、漱石は生まれてすぐ里子に出されている。わが国では高橋是清、西洋ではニュートン、ミケランジェロ、ダビンチと偉い人は、生まれてすぐ里子に出されている。しからば、偉い人に育てるにはすぐの里子がいいのか。(しかし歴代将軍は生まれてすぐ乳母のもとで育てられたらしいが、あんまりこれというヒトは育たなかったような。)