映画 砂の惑星part2 ②
少年が長老の指導に乗らずに、所属する共同体から体半分以上乗り出して冒険に乗り出す。この物語もしかして、放蕩息子(a prodigal son)の物語かもと思うことがある。あちこちさまよった息子を父親が抱きしめる有名な絵画があって、「父親が息子を赦す」場面であるとの説明を受けたような記憶がある。当時も今もそう言うことには興味がなかったし今もないので、西洋ではそんなことに勿体をつけて絵画にまでしてご苦労なことですなくらいに思っていた。
しかし、放蕩の意味を「冒険に出る」の意味にすると(この映画の少年のような行為)少年はあちこちさまよう(=冒険に乗り出す)ことが成長に有益であるとの教訓を述べた映画ではないかと思い当たった。もしそうならa prodigal sonを放蕩息子と訳したことは誤訳ではないのかとさえ思えてくる。あの絵画は「父親が息子をよくやった」と称賛している場面ということで筋が通ってくる。
サル山の群れの中の若いオスザルの中には、自分の山を抜け出してあちこちさまよって、元の自分の山に戻ってボスざるに昇格したり、別のサル山のボスになったりすることがあるそうである。それと同じで、人間あちこちさまようことで、一皮むけていい人間になりますよとの教訓ととれる。
昔は今と違って大言壮語する少年が多かった。実際に(放蕩ではなく)冒険に乗り出すのも少しはいた。(大抵は大言壮語だけで終わったのは残念である。)乗り出して成功するものは(少しはいた少年のうちのさらに)九牛の一毛であったのでこの映画のような生き方はとてもお勧めできそうに無い。しかしこの心意気を持っているといないとでは、人生の張りが違ってくる。実際にするしないはまた別である、心意気だけでも持つと違ってくる。現に我々は、ジェームス・ボンドのようなことはとてもできないけど、あんなことしてみたいなと思いながら映画を見ているではないか。それだけでも自分の人生に何かの変化があるはずである。一瞬でも錯覚することが、人生に意味を持たせる可能性があると考えられる。
今ニートとか言われている若い人が見ておいて、この通りする必要はないけど頭の片隅にでも残しておくと人生の新しい局面が現れた時に、役立つかもしれない映画である。入場料払ったから必ず役立てねばという料簡で見てはならない。映画館は、うどん屋とは本質的に異なるものでうどん屋なら料金払ったら必ずその分お腹が膨れて満足する。映画館は、お金を払って満足するかどうかは受け手の状態による。さらに複雑なことに、十年くらいたってやっと満足することもある。
この映画は単なる娯楽映画としても見れるが、このようないろいろ複雑な思いを抱かせる要素もあった。