読書反省文① 読書の家は富貴の家 西遊記
まだ香港が中国に返還される以前の香港の街を歩いていて、見上げないと読めないくらい大きな派手なネオンサインで「読書の家は富貴の家」と書いてあるのを見て感心したことがあった。日本でこのキャッチコピーでは絶対売り上げ落としてしまいそうだけど、この分野に特化した出版会社の看板にいいのではないか。
わたしは少しは本を読んだつもりであるが、読んだ本がいけなかったか読み方がいけなかったか、富貴の家にはこれからであって今のところまだなっていない。そこでここを反省しながら感想文(反省文)を書きたいと思う。
小さいころから西遊記 水滸伝 三国志演義は大好きであった。高校に行ってから金瓶梅を図書室から借りてきて挑戦したが最初読んだだけで退屈して放り出して以後一遍も挑戦していない。三奇書は読破したけど四奇書はどうやら無理の様子である。
このうち水滸伝は、滝沢馬琴が里見八犬伝に翻案しておおいに売れたであろう。もっともこの挿絵は北斎であったというからどちらの功績であるかははっきりしない。三国志演義は、講談本の原型になって広く売れたと想像される。金瓶梅も何かの原型になっていると考えられるがこれは知らない。
むかし高校生の時漢文の教師が「千年以上前の古典を読め。新刊書はいけない。」と力説していた。そりゃ皆新刊書読むようになったらあんたの商売成り立たないもんなと皮肉な目で見ていたが、こう並べてみると売れた古典を翻案して現代風の物語にするのは、いい仕事になるのかもしれない。
テレビドラマの水戸黄門は、見ることが無かったがつい最近再放送を見て突然思いついた。これは、西遊記を下敷きにしたもんだ。西遊記でも黄門でも旅をしながら悪人をやっつける。悪人は孫悟空猪八戒または助さん格さんによっていいところまで追いつめられるが、最後の詰めは観音さんまたはご隠居が、何かの霊力のある印を示すことで行われる。悪人は退治ではなく、改心することでその町または村が平穏になる。三蔵法師は主要な登場人物ではなく、水戸黄門では三蔵法師と観音さんをご隠居一人で兼ねている。遺憾ながら沙悟浄は、黄門様には出演されていない。
思うに、昔の中国の農村には近くの山に山賊が巣くっていて時々荒らしまわる。これを退治してもまたその山には別の山賊が住み着くことを繰り返していたに違いない。山賊が改心することは切なる願いであったと考えられる。同様に当時の日本の職場には、派閥対立が激しく一方は他方を敵悪人とみなしていた。なんとか平穏のうちにこの敵悪人を改心させたいとお互いに願っていたと考えられる。
ここに目を付けた水戸黄門の制作者は、実に慧眼であったと思う。昔の中国の農村と当時の日本の職場がよく似た困りごとを抱えていれば、よく似た物語がヒットするはずである。古典を読むときには、その古典がどういう人々に書かれてどういう立場の人々に支持されたかまでを読み解かねばいけない。そうしてそれが現代の人々のどの部分にどういう相似形で表れているかを見ぬかねばいけない。ああ面白かったとか、さすが古典には立派なことが書いてありますでは、とても富貴の家にはならないと考えられる。
無条件で立派な文章というのはこの世の中にはないのである。
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