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六波羅蜜寺の空也、清盛像

2024-11-20 19:23:31 | 日記

六波羅蜜寺の空也、清盛像

 空也像は教科書の写真で見たからいいだろうと思ったが、全体の像を見ると新しい発見がある。やせた体躯で腹に鉦をつけている。おそらくは鉦をたたいて人を呼び集めつまらない講話ではなく面白おかしく話をしたはずである。漫才か落語のようであっただろう。その後少しずつ分かりやすい説教が入っていったと想像される。人を集めるために芸能の力を借りたとみられる。芸能は現在の我々はどうしてもテレビの娯楽番組を思い出すからくだらない娯楽または暇つぶしを連想するが、もっと人間の存在の根本にかかわる大事な案件ではないのか。例えば食事とか育児とか医療と同じくらいである。または踊りがあったかもしれない。

 ただし空也さんは、民衆に宗教を授ける意図だけがあっても民衆のほうはありとあらゆる願いを空也さんにお願いしたために宗教が見かけ上巨大な力をもつことになってしまった。ちょうど貨幣が取引の便利のためだけに企画されたものであるのに、必要以上に巨大な力を持つことになったのと同じである。そんなことを空也さんの像から感じた。

 一方清盛像は、気の毒なくらい哀れな像に作ってある。極楽往生を願う老人の顔である。孤独で寂しい人生である。権力の頂点を極めた人とはとても思えない。この人本当に仏御前と浮名を流した人なのか。亡くなる前は熱病にかかり、かけた水がみな水蒸気になったとかありえない話のネタにされたところを見ると世間からよほど嫌われたのであろう。この像も嫌われた結果ではないか。寂しく作ってある。

 社会のトップではない人は、自分のことを「善い人だからトップに行けなかった」と考える。トップに行く人はみな「悪人」であると考える傾向にある。(そこまで思い込まなくてもと思うが、そう思うのが人情である。)ならば清盛像も悪人顔にするべきである。しかしそうしなかった。いい人でもない。寂しい弱々しい老人である。空也像は拝む人がいるだろうが、清盛像は絶対誰も拝まない。作者の意図は明らかであろう。またはこの二体を並べて陳列する意図も明らかであろう。清盛のようになるな、空也のようになれである。

 しかし、私個人は清盛もいいではないかと思うところがある。鉦をたたいて人々のためにもいいけど、福原の港で沈む夕日をもう一遍上らせるというのもいいものでできるものならやってみたいものである。



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