六波羅蜜寺の十一面観音像②
肝心の秘仏のほうはよく見えなかったので何とも言えないが、タイ風の金ぴかの仏さまは近くでまじまじと拝むことができた。カンボジアのレリーフに踊り子を彫ってあるのを見かけるが、あの感じである。この仏様は踊り子をモデルにしたのではないか。(間違えているとひどくお叱りを受けそうだけど)我が国の神様でいえば弁財天の感じである。この感じの仏さまだと、なんでも気軽にお願い事ができる。晩御飯にもう一皿お願いしたいとか、お財布にもう一枚多めに入っていてほしいとかである。この願いは大日さんとか阿弥陀さんにしてはいけなさそうな気がする。
宗教というと堅苦しいまたは立派なことをイメージするけどどうもだいぶん違うようだ。十一面観音に限らず観音像はあちこちで見てきたが、気品のある踊り子さんという感じがする。決してあれしてはいかん、このようにせよ、このように考えろという難しい人ではないような気がする。今回よく見れなかった秘仏もきっとそうではないか。宗教は今まで考えてきたようなものではなく、もっとお気楽なものではないかという気がしてきた。
小さいころ善い行いをすれば仏様の近くの蓮の花の上に席が与えられる。悪いことをすれば地獄であると教えられた。その時わたくしは、地獄は勿論嫌だが極楽で仏様の近くも肩が凝って嫌である、できれば極楽は極楽でも仏さまからはできるだけ遠くで仏さまの目の届かないところがよろしいと思っていた。そのためには善い行いをするにしてもなるたけ小さいものにしなければいけない。基本この考えは変わらないが、もしその仏様がこの金ぴかの踊り子風の方であるなら遠くではうれしくない。できるだけ近くに生まれ変わりたいものである。この世で善い行いをする気力が湧こうというものである。
これに限らず小さいころに刷り込まれた考え方は一生を支配する。しかし世の中は変化しているからその考えに変更を加えることはどんな人も必須のことであろう。わたくしはこの金ぴかの仏さまを拝観して少しく私に刷り込まれた考えを時代に合わせて変更することができたのは大変幸せなことであった。
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