木米と永翁(宮崎市定 朝日新聞社)①
新聞にのせたエッセイを集めて本にしたもの。昭和50年刊で当時1200円だからかなり高かった。それが今古本屋で110円であるからこれは読まねば損である。話題は多岐にわたるが、戦前の軍隊の話や第三高等学校の話にまで及ぶ。それぞれ興味深い話題であるのになぜかしっくりこない。書き方が現代風でないのである。現代ではエッセイはなるたけ読者の耳目を集めるように大げさな書き方をする。それに私たちは慣らされてしまっている。
例えば、日本の見猿、聞か猿、言は猿、の像はフランスへ渡ってすべてを見る猿、なんでも聞く猿、すべてを言って回る猿、の像になったと淡々と書くが、現代ならなぜ西洋にきて猿が変化したのかの理由を東西の文化の違い宗教の相違などを論点にして書くであろう。衒学的なあざとい文章を書くであろう。これはエッセイの書き手(すなわち自分)が優れた能力のある人物であることを表現したいがためと私は見ている。マウントを取っているのではなく、「文を売りたいそのためにはあざとい書き方でもするぞ」の気持ちと思う。現代は売文業の人が激烈な競争にさらされ、ために現代は文章が歪んでいるのではないか。そんな印象を受けた。宮崎さん風の淡々とした文がいいのか様々自分の考えをこれでもかと盛り込むのがいいのかは意見が分かれるであろうが、私は盛り込んでいいけどもっと控え目がいいと思っている。
宮崎市定さんがお仕事をされた時代は、おうちに応接間が作られた時代である。応接間には立派な装丁の日本の歴史とか世界の歴史とかの本を並べるのが流行であった。インテリアとしての本であるが著者はそれぞれ家一軒が建ったという。本が売れた時代である。しかもその本の中身は充実していたので、今私はその本を古本屋で安く買って読むといういい思いをしている。
時代が変わって本が売れなくなった。映像による情報伝達になってしまった。こっちのほうが早くて量がたくさんあっていいように思うけど考えながら情報を摂取できない。なんだか出汁の入っていない味噌汁を飲むような気がする。
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