昭和史(半藤一利著 平凡社)
今はどうなってるか知らないが、昔は高校の日本史は昭和史を教えてもいいが入試に出題しないとされていた。ちょうど入試前の一月二月に昭和史の授業を聴いた記憶がある。その際二・二六事件は農村の疲弊を知った青年将校が、疲弊の原因を作りかつそれを放置した重臣たちを一掃しようとしたクーデタであるとの説明であった。その後の映画や雑誌の文もそれを踏襲したものが多かった。しかし私はこれを聞いたときに強い違和感を覚えた。農村の疲弊によって若い女の子が身売りすることに敵愾心をもつことは、その軍人さんは優しい心を持った人であることである。ならば、たとえその原因を作ったにせよ重臣たちを惨殺する気持ちになるであろうか。優しい人なら惨殺以外のほかの手段(例えば幽閉)を講じるはずである。そうでなかったのだから、疲弊の原因を作った重臣を一掃というのは単なる口実であると思っていた。では何が原因であったのかはしかとした説明を聞いたことがなかったので今回この本に書いてあるかどうかを楽しみに読んだ。
昭和史は、現在の自分に深く関係する。名前を知り写真も見る親類縁者に戦病死あり、また私は小さいころ被災した父母の連日の嘆きを聞いて育った。何より、昭和五十年代まで身の回りには「根性第一おじさん」があちこちにいたのである。食べずに寝ずにひたすら受験勉強せよと唱えるおじさんで、軍隊のしごきを思うと受験勉強はまだまだ甘いとの信念を持っている人である。受験勉強にも効率が大事とか他にもっと大事なことがあるとか言おうものなら、雷のような声で罵詈雑言を浴びせられる。迷惑なこと限りない人々で、近所に一人学校の先生の中に二人親戚の中に一人というぐらいな割合で存在した。戦争中の洗脳が戦後も解けない人である。
この本によれば、二・二六事件は軍隊が巨大化するのに反対の重臣を除いて予算を取ってきて自分たちの組織を大きくして自分が(栄耀栄華とまでいかなくても)いい思いをしたい、が目的であったようだ。(ここに派閥闘争が入り込むから説明はややこしい)これは現代でいえば売り上げを大きくして会社を大きくしようとして無理な競争に参入するようなものであろう。会社が自分を大きくしようというのはよくあることで、いいこともあるだろうし弊害もあるだろうが、官僚組織が予算を引っ張ってきて自分を大きくしようとするとこのように碌なことがない。
私はここまで読んで、登場人物がまじめであったことに驚く。そうして、いきなりだがお釈迦様はまじめになれということを教えの中に入れなかったという話を思い出した。(真偽は知らないのだが)そうかまじめはいけないことなんだと思いが至った。この辺りは状況によるだろうから滅多に断言してはいけないと思うが、どうやらまじめは望ましい時と望ましくないときとがあるようである。歴史は哲学でもあるということを思い出しながら、この本のこの部分を読んだ。
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