本の感想

本の感想など

映画 砂の惑星part2 ②

2024-04-15 22:52:33 | 日記

映画 砂の惑星part2 ②

 少年が長老の指導に乗らずに、所属する共同体から体半分以上乗り出して冒険に乗り出す。この物語もしかして、放蕩息子(a prodigal son)の物語かもと思うことがある。あちこちさまよった息子を父親が抱きしめる有名な絵画があって、「父親が息子を赦す」場面であるとの説明を受けたような記憶がある。当時も今もそう言うことには興味がなかったし今もないので、西洋ではそんなことに勿体をつけて絵画にまでしてご苦労なことですなくらいに思っていた。

 しかし、放蕩の意味を「冒険に出る」の意味にすると(この映画の少年のような行為)少年はあちこちさまよう(=冒険に乗り出す)ことが成長に有益であるとの教訓を述べた映画ではないかと思い当たった。もしそうならa prodigal sonを放蕩息子と訳したことは誤訳ではないのかとさえ思えてくる。あの絵画は「父親が息子をよくやった」と称賛している場面ということで筋が通ってくる。

 サル山の群れの中の若いオスザルの中には、自分の山を抜け出してあちこちさまよって、元の自分の山に戻ってボスざるに昇格したり、別のサル山のボスになったりすることがあるそうである。それと同じで、人間あちこちさまようことで、一皮むけていい人間になりますよとの教訓ととれる。

 

 昔は今と違って大言壮語する少年が多かった。実際に(放蕩ではなく)冒険に乗り出すのも少しはいた。(大抵は大言壮語だけで終わったのは残念である。)乗り出して成功するものは(少しはいた少年のうちのさらに)九牛の一毛であったのでこの映画のような生き方はとてもお勧めできそうに無い。しかしこの心意気を持っているといないとでは、人生の張りが違ってくる。実際にするしないはまた別である、心意気だけでも持つと違ってくる。現に我々は、ジェームス・ボンドのようなことはとてもできないけど、あんなことしてみたいなと思いながら映画を見ているではないか。それだけでも自分の人生に何かの変化があるはずである。一瞬でも錯覚することが、人生に意味を持たせる可能性があると考えられる。

 今ニートとか言われている若い人が見ておいて、この通りする必要はないけど頭の片隅にでも残しておくと人生の新しい局面が現れた時に、役立つかもしれない映画である。入場料払ったから必ず役立てねばという料簡で見てはならない。映画館は、うどん屋とは本質的に異なるものでうどん屋なら料金払ったら必ずその分お腹が膨れて満足する。映画館は、お金を払って満足するかどうかは受け手の状態による。さらに複雑なことに、十年くらいたってやっと満足することもある。

 この映画は単なる娯楽映画としても見れるが、このようないろいろ複雑な思いを抱かせる要素もあった。

 


小説 新坊ちゃん㉒ それから

2024-04-12 19:11:38 | 日記

小説 新坊ちゃん㉒ それから

 その後意外な才が私にはあったようで占い屋は大繁盛で、御殿とまではいかぬまでも大きな家に住んでいる。伝え聞くに、今学校の先生は忙しくて大変らしい。昔は忙しくなかった。その代わり権力闘争があってそのはざまにはまると大変である、命にかかわる人までいた。

学校は平和なところではない。わたしは学校は平和なところである分給料が安いのに相違ないと自分で勝手に解釈して、終身雇用の身にならねばいかんと言われたときに学校の先生になった。これが大きな間違いであることは半年を俟たずに気づいた。給料が安い上に職場が戦場であれば行く値打ちはない。(給料が安いなら平和、高いなら戦場どうかこの鉄則を守っていただきたい)わたしと同じ間違いを犯す人がいてはいけないから拙文をもって警鐘を鳴らすものである。もし今忙しい上に権力闘争まであるならそれは単なる修羅場である、そこへは近づいてはならない。快川和尚でもないのだからわざわざ火の中に入りに行くことはないのである。

 思うに権力闘争する教員を一掃するために学校の先生の仕事を膨大なものにしているように見える。仕事が忙しくなると悪事も働けまい、権力闘争どころではなくなるだろう。宴会をして猥談をする時間もなくなるだろう。文科省のお役人もなかなか高等戦略をする。しかしいつまでもこれでは立ちいかぬだろうと他人事ながら心配してやっていたところ、意外なニュースを目にした。

 私立も公立も授業料をタダにするというのである。一見慈悲深いアリガタイ政策に見えるがそうではない。中学の卒業生は、今まで高い授業料であった私立へ行ったほうが得であると錯覚するのである。一万円のラーメンと五千円のラーメン今日だけ両方ともタダにしますと言えば、だれでも一万円の方を頼みたくなる。公立は、定員割れすると廃校になる。こうやって公立を廃校にしておいてあるとき、授業料元通りにすると私立は経営が成り立たなくなって倒産または募集停止する。行き場を失った中学卒業生は、通信制に行かざるを得ない。それからは、通信制でAIが教育するのである。地方政府は、教育費の支払いが減って大喜びである。

 もし、通信制に行った者すべてが二宮尊徳みたいな立派な人ばかりなら、何ら問題がない。しかしそうでもないだろう。日本は、受けた教育によって人々が分断される国になるだろう。教育費を倹約すると、難しい問題が多分起こるはずである。

 尤も、教育費を潤沢にするとオレが若いころさんざん阿保らしい思いをさせられたようなことが起こる。このような組織は余程しっかり管理する能力のあるヒトでないと管理できないものである。そこを、田沼意次のようなカネを積んだものを出世させるということをするもんだから、様々な悲喜劇があった。悲劇の方では、命にかかわるものまであった。

 世の中を設計する立場にあるものは、世の中で人々の舐めている苦労を認識しているんだろうか?


吾輩は猫である (角川文庫 昭和37年 460円 )

2024-04-11 23:24:13 | 日記

吾輩は猫である (角川文庫 昭和37年 460円 )

  (角川は岩波のように古くなっても紙が日焼けしないので読みやすい。)

小さいころから何度も読んだ本を再び三たび読んでみた。漱石は落語にはまりすぎて明治19年19歳の時第一高等中学を落第している。落第するほど落語を聴いたことが、この「猫」が面白くて売れた理由だろう。何度読んでも面白いのは、古典落語は落ちが分かっていても面白いのと同じである。

 ところが私は漱石のこころとか明暗とかはさっぱり読めない。決心してそれしか持たないで電車に乗っても少し読んで放り出してしまう。このようではもう生涯読むことはなさそうである。漱石後半の大作は、知識人の自意識に悩んで書いたとされる。いわば漱石の自分で行う精神分析の書であるだろう。そういえばフロイトは漱石と全く同時代のヒトである。洋の東西を隔てていても、同じようにヒトの心を分析する達人が出たことは偶然ではあるまい。全世界がそういう時代であったのだろう。

 さて、「猫」は自分の自意識を自分で解剖する困難でたぶん苦しい作業の、片手間に書かれたのではないと思う。自分の苦しい心を自力で忘れさせる為、毒消しのつもりでわざとやったことだと思う。ちょうど辛い強行軍をやらされるときに、ちょっとおふざけの軍歌をうたいながら行くようなものである。わたくしは、「猫」を読みながらアハハと笑いながら、漱石の苦しくて孤独な心境を気の毒にと思ってしまう。そんなことしないで(ほかの楽しみ見つけて)楽しくやって行けばよかったのに。何のために憂うるのか。杞憂ではないのか。

 「猫」も子規風の写生文で、風景を描写するにはこの文体が大変いいんだけど果たして自分の自意識を自分で解剖するためにはいい文体なのかどうかは疑わしいと思っている。(わたしはフロイトが成功したのは、ドイツ語が精神を分析するのに優れた文体だったからではないか、さらにドイツ語が自然科学の記述にもうまく行く文体だったから自然科学が発展したのではないかと思っている。言葉文体は大事である。)

 今回改めて読んでみて、初めて違和感を持った。登場人物に頭にかっと血が上るヒト、または腹を立てて執念深く復讐のチャンスを狙うヒトが一切出てこないのである。登場人物は皆同じような人である。こんないいヒトばっかりなはずがない。一種のパラダイスとして描いたのか。または本当にこの世の投影として「猫」を書いたのか。(これはいくらなんでもありえない気がするが。)怒るヒトは嫌いだから出さなかったのか。ここも謎である。

 

 今頃気が付いたが、漱石は生まれてすぐ里子に出されている。わが国では高橋是清、西洋ではニュートン、ミケランジェロ、ダビンチと偉い人は、生まれてすぐ里子に出されている。しからば、偉い人に育てるにはすぐの里子がいいのか。(しかし歴代将軍は生まれてすぐ乳母のもとで育てられたらしいが、あんまりこれというヒトは育たなかったような。)


映画 君たちはどう生きるか の題名について

2024-04-10 18:28:03 | 日記

映画 君たちはどう生きるか の題名について

 一見この映画のストーリーにそぐわない題だと思える。一生懸命働いて功名を挙げるとか、のんびりやった方が得ですよとかの教訓を期待していたのにである。この件を長い間考えて多分こういうことではないかと思うところがある。

 この映画ではこの世とあの世は特別の場合行き来することが可能であるし、あの世からこの世を見ることが可能である、ということになっている。自分たちは、ご先祖さんに見守られているしその加護を受けている。この感覚を日本人は、外来宗教を受け入れた後もずーと今も持ち続けてきた。

現に私はお盆には、「地獄の釜の蓋が開いて我が家にご先祖さんが帰ってくる」からお供えをすると教えられてきた。(わたくしは我がご先祖は極楽ではなく地獄の方へお行きになったのか、それではその子孫たるわたくしも地獄行きの可能性が高いような気がしてがっかりした。同時にせっかく地獄からお帰りになるのだからもっと豪華なタイの尾頭付きとかをお供えすればいいのに、なぜわずかなご飯と野菜の炊いたものしかお供えしないのか不思議であった。)この地獄の釜が開いてご先祖がお帰りになるのは、おそらくもともとの仏教にはないのではないかと思う。仏教伝来した時、土俗のご先祖さんに見守られているという感覚との整合性を付けるために編み出されたものではないか、仏教側が妥協したと考えられる。

このご先祖さんが自分たちと共にあるとの感覚が、自分たちの共同体を守る意志の源になっている。生き方がこの感覚によって規定されている。感覚によるものだから、あの面倒くさい戒律のように明文化する必要がない。この「君たちはどう生きるか」は、(その良しあしは問わないで)「君たちはご先祖に見守られている感覚の中で生きる」と言いたいのであろう。これが、西洋でユニークとして(我々からすると全然ユニークでないのだが)絶賛を浴びた理由と考えてみた。

 

南米では、家の中にご先祖のミイラを置く風習があると仄聞する。その南米の民族と我が日本の家に仏壇を置くは、同じ風習ではないか。ご先祖に見守られているのである。ただ湿っぽい日本ではミイラが難しいので仏壇になった。

 犯罪の発生が、仏壇の存在と関係があるのかどうかの統計がどこかでなされていないか。もしなされていれば相関があると思うのだがどうか。


映画 オッペンハイマー②

2024-04-07 22:44:29 | 日記

映画 オッペンハイマー③

 ニュースでは、この映画を見たヒトは核兵器の恐怖を訴える映画であると評価しているらしい。もちろんそれあるだろう。何しろ核は拡散してしまっている。昔のように独占されていない。勇んで開発したが、した後苦しんだ。同じように核を使うが、使った後苦しむに相違ないとする予測である。まさかと思うが第三次世界大戦という物騒な題の本が本屋に並んでいる。(ところでこの映画では、トルーマンは全然苦しんでいなかった。)

 しかしアートは時代の動きを反映するものである。もっと新しい時代の動きもメッセージしているはずだと思う。核兵器にことよせて、新しい機器の開発が危険とする警告であるとみる。その新しい機器がAIであるのか、核融合であるのか、もっと他のものなのかは分からない。新しいものは、便利だけど危険でもある。中には便利でないくせに危険なものまである。

 神に近づきたい、神の摂理を知りたいがハイゼンベルグの研究の動機であろう。その弟子オッペンハイマーは神の力を使いたいが動機であった。(要請があったので要請に答えたまでと本人も言っているし実際そうであろうが、根本は神の力を使ってみたいであろう。)その神の力を使ったために、落ち込むことになって落ち込むついでに当時のアメリカ社会からよく言われないようになってしまったところがこの映画の見せ場になっている。

 同じように、AIは神のようにヒトを支配しないか。何事もAIに問い合わせたり判断を仰ぐようにならないか。便利になると見せかけて却ってヒトを忙しくしないか。(忙しくするとは、漢字の中にその意味が立派に表現されている。心が亡びるのである。漢字を発明した人は、賢い人だとつくづく思う。)AIを発明した人は、人の心を滅ぼさないか。AIを発明した人は、オッペンハイマーのようにあとで落ち込んだり、社会全体からよく言われないようにならないか。他人事ながらわたくしは、心配する。

 昔が良かったとは言えないまでも、電話もテレビもない昔も皆そこでの楽しみを見つけていたのである。余計なお世話を焼いてもらわずともいいのに時々思う。