残照亭の日日

残り少ない日々、自分の日常や古い話などを時々書きます。
故「藤沢周平」のファン。思い出の作品などを書いてます。

「藤沢周平」⑦ ―「海坂藩」は荘内がモデル―

2023-09-12 | 藤沢周平作品

*敬称略 悪しからず

藤沢周平の武家もの作品で良く知られているのは「海坂藩」

現在では、庄内地方を舞台にしていることは、良く知られている。

藤澤「・・・海坂藩っていうのは、架空ですけどね、中味はどっち

   かって言えば庄内藩のことを書いてるんですね。風景とかネ、

   そういったものは」

  「海坂って言うのはね、まるでこうなんて言うか、高貴な・・・

  そういう俳句の同人誌がありましてネ、浜松の静岡のね、人たちが

  やってるんですがね、そこの俳句に、若い頃出した事が有るので、

  そこから拝借したんですけど、非常に、いい言葉ですよね。

  あしび系統ですけど、そこから、“海坂藩”を作ったんですけどね。」

  「・・鶴岡の出身ですけど、そのものズハリと言うのは、以前

   に“又蔵の火”という庄内藩での出来事を書いていますけどね。

   それで、荘内をモデルのようにして"海坂藩"を作ったわけです。」

"又蔵の火"初出誌 別冊文芸春秋125号 昭和48年9月

藤沢周平氏・・若いナ 46歳

直木賞受賞直後、人気作家になるまで、まだしばらく時が必要だった。


「藤沢周平」⑥"教師像について"

2023-09-08 | 藤沢周平作品

*敬称略 悪しからず

藤澤周平の教師時代は、わずか二年程度しかない。

だが、生徒たちに対する教師としての愛情は、その後再開してのちは

深く濃く生涯にわたって、続く事になった。

藤澤周平は「教師とはかくあるべし」と考えていた。

『例えばですよ、僕とたいして学年、違わないと思うんだけども、

Yさんという先生がいてね、その先生がある時、学校が火事になりましてネ、

寄宿舎、山奥ですからネ、寄宿舎に生徒が泊まってる訳ですね、

それが火事になりまして、冬に、一応全員出したんですけどネ、

何か心配になりましてネ、残ってるんじゃないか、と。

もういっぺん、火の中に飛び込んで、そうして、二階に上がって、

焼け死んだ、亡くなられたんですけどネ。

実際には、生徒達はみんな無事だったんですけどネ、。

そういう気持ちっていうのは、これは、先生でないと出来ない事だと、

思うんですヨ。

先生とか親にしか出来ない事だと思うんですヨね。』

寄宿舎が火災で焼失し、生徒を心配し火の中へ飛び込んだ教師が

亡くなった事故は、昭和30年代に山形県内で実際に起こった事故である。

結核に侵されなければ、あるいは退院後教師に復帰していれば、藤沢周平の

長いトンネルは無かったかもしれない。

多くの作品は、まったく別の形で姿を見せたのではないか。

つづきは、近いうちの別の日に・・・


「藤沢周平」⑤"子供たちに好かれた教師時代"

2023-09-07 | 藤沢周平作品

*敬称略 悪しからず

藤澤周平は、[1949年昭和24年]
山形師範学校卒業し、当時の山形県西田川郡湯田川村立

湯田川中学校へ赴任。9月から一年生の国語と社会を担当

藤沢は云う「本当にもう、教え子とは良く言ったものでね。

自分の子供みたいなもんですよ。僕は、まあ、先生の時、その時、

満で21くらいの時ですよ、今考えるとネ。

そんな若さでもネ、教え子って言うのは、まさに子供みたいな気持ちが

する時が有るんですヨ。」

・昭和26年 24歳 三月学校の集団検診で、肺結核が発見され、

新学期から休職となり以後教職を去ることになる。

藤澤「病気になって、休職しょうということになってネ、僕は最初、

実際そうなんだけども、そんな大変な病気じゃないと思ってて、

一年くらいも休んで、休職すれば戻れるだろうと思ってて、その時、

何も言わなかったんですよ。生徒にネ、休むって。」

行く間際になれば、言おうと思って、ところが、どこか様子が

おかしかったんでしょうな。生徒が気にして、くっ付いて来るんですよ。

離れないんですよネ。

あれはね、先生はどっかに移るんだって思ったって言うんですヨ。

先生はネ、彼らに言わせれば、春になるとネ異動があるでしよう。

だからね、先生はどっかに変わるんだって、生徒達は考えたって

言うんですヨ。毎日毎日、うるさくてしょうがないですヨ。

それでくっ付いてきて、どうという事はないんだけど、始終誰か彼か

傍にいて、つまらない事をやっているっていう具合でネ。

何ともッ、可愛くて仕方がないんですヨ。本当にネ。

その時、先生って言うのはこういうもんかってつくづく思ったんですヨ。」

*藤沢周平の教師像を含め、続きは、明日・・できるだけ書きます。


「藤沢周平」④"竜尾返し"後日譚

2023-09-02 | 藤沢周平作品

*敬称略 悪しからず

山田洋次監督の映画「隠し剣鬼の爪」(平成16年10月公開)

この映画の中で、片桐宗蔵(永瀬正敏)が、師の余呉善右衛門(田中泯)から

伝授され、狭間弥一郎(小澤征悦)を倒した剣技が、"邪剣竜尾返し"に登場

した"竜尾返し"である。"鬼の爪"はまた別の剣技である。

どちらも、こけおどしの剣法ではなく、実践に使える剣技であった。

藤沢が自ら立ち回り編み出したのだ。

山田監督は、いくつかの短編作品を料理して映画に仕上げたと云う事である。

実際、当初の題名は「雪明り」(初出 「小説現代 S51・4月号」)であった

そうだ。

添付は、小説現代 1997年(平成9年3月号) 追悼として再掲載されたもの。

「雪明り」は、藤沢周平の成就しなかった恋を思わせる作品であり、

名作の呼び声が高い。

声に出して読みたくなる美しい文章である

「雪明り」には、実際の後日譚につながる話があるのだが、それは

いつか「雪明り」を取り上げたときに記すこととしたい。


「藤沢周平」③~藤沢と司馬の"竜尾返し"

2023-09-01 | 藤沢周平作品

藤沢作品の「隠し剣シリース」の最初が"邪剣竜尾返し"

初出は「オール読物 昭和51年10月号」

この作品は終の棲家となる大泉学園町に引っ越す前の、東久留米市に住んでいた

ころの執筆・発表である。

作家として、一本立ちの目途が立ち生活も安定した時期で、多作に入った

頃である。

隠し剣の剣技は、実際に一人で立ち回りをし、実用できるかどうかを

確認したうえで、書いたという。

司馬遼太郎の「竜尾返し」は(何の作品だったか、見つけるのに手間取った)

中編小説「千葉周作」に出ていた。

初出は、昭和38年6月別冊文芸春秋に発表されている。

私は、この短編集(昭和46年初版)で読んだ(司馬の本はあまり持っていない)

さて、「千葉周作が『お案じなさるな。拙者が兵法には竜尾返しという秘術が

ござる。何百人何千人押し寄せるとも、この秘術一つあれば、寄せてを乱離骨灰

に砕き申す(以下略)』

これを聞いた敵方一統百人が、みな逃走した。そんな秘法などは、むろんない。」

つまり、私が言いたいのは「藤沢は実践の剣法を書き、司馬は秘法なんてないの

だ」と云っていた、ということ。

なんか言葉足らずで、司馬ファンに誤解を与えそうだけど・・謝

藤沢周平が、東久留米市に住んでいた頃の話はまた別途の予定。