五十五節
弟子の彭更が尋ねた。
「何百人の弟子を引き連れ、其の後ろに何十台もの車を従えて、諸侯を渡り歩いて禄を受けられるのは、分に過ぎた贅沢ではありませんか。」
孟子は言った。
「正当な理由がなければ、わずかな食料でも人から受けてはいけない。しかし正当な理由があれば、舜が堯から天下という大きなものを譲り受けたとしても、分に過ぎたことにならない。それともお前はそれを分に過ぎた贅沢と思っているのか。」
「思っていません。ただ士たる者が仕えもせずに禄だけもらうのはよくない事だと思うのです。」
「人は互いの成果を融通し事を交換し、互いに余ったもので足りないところを補ぎなうようにしなければ、農夫は食糧はあるが布がなく、女は布はあるが食糧はないということになる。もしお前が政治を任されたとして、人々の成果を互いに融通し合うような方策を講じてやれば、農夫や女はもちろん、大工や車造りの職人も皆お前のおかげで食料を得られる。さて、ここに一人の男がいて、家にあっては孝、外では年長者に善く仕え、先王の道を守り、後の学者にそれを伝えようとしている。ところが融通し合う生産物がないからと言って、お前のおかげで食料を得られないことになる。お前はどうして大工や車造りの職人などばかり尊んで、仁義の道を行う者を軽んずるのか。」
「大工や車造りの職人は、食を求めることにその志があります。君子が道を行う其の志もやはり食料の為なのですか。」
「お前はどうして何の為にという目的ばかり問題にするのか。やった仕事がお前にとって役に立ち、報酬を与えてもよいと思えば与えればよい。お前は志に報酬を与えるのか、それとも成果に与えるのか。」
「志に対してです。」
「ではここに一人の男がいて、屋根仕事をさせれば瓦を割ってしまうし、壁に飾りを塗らさると一面塗りつぶしてしまう。だが其の志が報酬を得ることであれば、お前は与えるのか。」
「いいえ与えません。」
「それではやはりお前は志に対して報酬を与えるのではなく、その成果に与えるわけだ。」
彭更問曰、後車數十乘、從者數百人、以傳食於諸侯。不以泰乎。孟子曰、非其道、則一簞食不可受於人。如其道、則舜受堯之天下、不以為泰。子以為泰乎。曰、否。士無事而食、不可也。曰、子不通功易事、以羡補不足、則農有餘粟、女有餘布。子如通之、則梓匠輪輿皆得食於子。於此有人焉。入則孝、出則悌、守先王之道、以待後之學者。而不得食於子、子何尊梓匠輪輿而輕為仁義者哉。曰、梓匠輪輿、其志將以求食也。君子之為道也、其志亦將以求食與。曰、子何以其志為哉。其有功於子、可食而食之矣。且子食志乎。食功乎。曰、食志。曰、有人於此。毀瓦畫墁、其志將以求食也、則子食之乎。曰、否。曰、然則子非食志也。食功也。
彭更問いて曰く、「後車數十乘、從者數百人、以て諸侯に傳食す。以だ泰ならずや。」孟子曰く、「其の道に非ざれば、則ち一簞の食も人より受く可からず。如し其の道ならば、則ち舜、堯の天下を受くるも、以て泰なりと為さず,子は以て泰なりと為すか。」曰く、「否。士、事無くして食むは、不可なり。」曰く、「子、功を通じ事を易え、羡(あまる)れるを以て不足を補わずんば、則ち農に餘粟有り、女に餘布有らん。子如し之を通ぜば、則ち梓・匠・輪・輿、皆食を子に得ん。此に人有り。入りては則ち孝、出でては則ち悌、先王の道を守り、以て後の學者を待つ。而るに食を子に得ずとせば、子何ぞ梓・匠・輪・輿を尊んで、仁義を為す者を輕んずるか。」曰く、「梓・匠・輪・輿、其の志は將に以て食を求めんとするなり。君子の道を為すや、其の志も亦た將に以て食を求めんとするか。」曰く、「子何ぞ其の志を以て為さんや。其の子に功有らば、食ましむ可くして之に食ましめんのみ。且つ子、志に食ましむるか、功に食ましむるか。」曰く、「志に食ましむ。」曰く、「此に人有り。瓦を毀ち墁に畫するも、其の志は將に以て食を求めんとすれば、則ち子之に食ましむるか。」曰く、「否。」曰く、「然らば則ち子は志に食ましむるに非ざるなり。功に食ましむるなり。」
<語釈>
○「後車」、服部宇之吉氏云う、後車とは、孟子の諸侯へ出入する行列の後ろに随う車なり。○「傳食」、服部宇之吉氏云う、傳食とは、諸侯より諸侯へと禄を受けて移り行く」なり。○「泰」、趙注:「泰」は「甚」なり。朱注:「泰」は「侈」なり。朱注を採用する。○「子不通」、子は彭更を指し、以下の文を彭更が政治を司ったとしたらと云う前提で解釈するのが一般的であるが、服部宇之吉氏はここでは広く人の義と見るしと述べている。私もこの解釈の方がよいと思うので、これを採用した。○「梓匠輪輿」、「梓匠」は、大工、「輪輿」は車造り。○「毀瓦畫墁」、朱注:「墁」(マン)は牆壁の飾りなり、「毀瓦畫墁」とは、功無くして害有るを言うなり。
<解説>
後車數十乘、從者數百人という孟子の陣容に驚かされる。之だけの者を引き連れて諸国を巡り歩いていたとしたら、相当な収入があったのだろう。それだけ当時孟子が世に入れられていたということだろう。そうなると諸侯にとっても孟子を招いてその話を聞くことは、たとえその王道論が実践不可能であっても、己自身のステータスをあげる為に必要としたのではなかろうか。