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『孫子』解説

2018-07-25 10:26:44 | 四書解読
『孫子』解説

一『孫子』と孫武について

 中国の兵法書として現代に伝えられているものに、兵法七書がある。これは『孫子』を筆頭に、『呉子』・『司馬法』・『尉繚子』・『李衛公問對』・『石公三略』・『六韜』の七書である。この中でも『孫子』は内容的に最も優れており、兵法書としてまとまったものである。
『孫子』及びその著者孫武については、多くの人が知っている所であるが、孫武とはどのような人物であったか、その詳細はほとんど分かっていない。『史記』孫子呉起列伝は、「孫子武は、斉人なり。兵法を以て呉王闔廬に見ゆ。闔廬曰く、『子の十三篇、吾尽く之を観たり。以て小しく兵を勒するを(兵をおさめ整える)試みる可きか。』對えて曰く、『可なり。』闔廬曰く、『試みるに婦人を以てす可きか。』曰く、『可なり。』是に於いて之を許し、宮中の美女を出だして、百八十人を得たり。孫子、分かちて二隊と為し、王の寵姫二人を以て各々隊長と為し、皆戟を持たせしむ。之に令して曰く、『汝、而(なんじ)の心(むね)と左右の手と背を知るか。』婦人曰く、『之を知る。』孫子曰く、『前には、則ち心を視よ。左には、左の手を視よ。右には右の手を視よ。後ろには、即ち背を視よ。』婦人曰く、『諾。』約束既に布かれ、乃ち鈇鉞(鈇はおの、鉞はまさかり)を設け、即ち之に三令五申す(命令が三回、説明が五回)。是に於いて之を右に鼓す。婦人大いに笑う。孫子曰く、『約束明らかならず、申令熟せざるは、将の罪なり。』復た三令五申して之を左に鼓す。婦人復た大いに笑う。孫子曰く、『約束明らかならず、申令熟せざるは、将の罪なり、鼓既に已に明らかにして而も法の如くにせざるは、吏士の罪なり。』乃ち左右の隊長を斬らんと欲す。呉王、台上従り観、且に愛姫を斬らんとするを見て、大いに駭き、趣(すみやか)やかに使いをして令を下さしめて曰く、『寡人已に将軍の能く兵を用うるを知れり。寡人、此の二姫に非ずんば、食するも味わいを甘しとせず、願わくは斬る勿れ。』孫子曰く、『臣、既に已に命を受けて将為り。将、軍に在りては、君命も受けざる所有り。』遂に隊長二人を斬り以て徇う。其の次を用って隊長と為し、是に於いて復た之を鼓す。婦人、左右前後跪起し、皆規矩縄墨(規は定規、矩はコンパス、縄墨はすみなわ。規定通りで乱れがないこと)に中り、敢て声を出だすもの無し。是に於いて孫氏使いをして王に報ぜしめて曰く、『兵既に整斉たり。王、試みに下りて之を観る可し。唯王の之を用いんと欲する所、水火に赴くと雖も猶ほ可なり。』呉王曰く、『将軍、罷休して舎に就け。寡人、下りて観るを願わじ。』孫氏曰く、『王、徒に其の言を好み、其の実を用うるを能わず。』是に於いて闔廬、孫子の能く兵を用うるを知り、卒に以て将と為す。西のかた彊楚を破りて、郢に入り、北のかた斉・晋を威して、名を諸侯に顕ししは、孫子與りて力有り。」と述べているが、そのほとんどはエピソードで、その人物像も功績もそれほど詳しくは書かれていない。では孫武の名が始めて見えるのはいつかと言えば、『史記』の呉太伯世家に、「三年(前512年)、呉王闔廬、子胥・伯嚭と兵を将いて楚を伐ち、舒を抜き、呉の亡将二公子を殺す。光、謀りて郢に入らんと欲す。将軍孫武曰く、『民、労る。未だ可ならず。之を待て。』」とあるのが最初であり、次いで呉太伯世家の九年の条にその名が見える。孫武の名が歴史上に現れるのはこの二か所だけである。その少なさと、更に『春秋左氏伝』では孫武の名が出てこないことから、孫武の実在を疑い、『孫子』の著者は、孫武の時代からおよそ百年ほど後の人で孫武の子孫だという齊の人孫臏だとする説もある。この問題は長らく論争が続き、決着が付かなかったのであるが、1972年7月、山東省臨浙県で発掘された前漢初期の墓から『孫子兵法』と『孫臏兵法』の二つの竹簡が発見され、孫子、孫臏それぞれに兵法書があったことが明らかになり、終止符をうとうとしている。

二『孫子』の体裁

現在伝えられている『孫子』は十三篇である。ところが『漢書』芸文志は八十二篇とあって、その篇数を異にしている。『孫子』の最も古い注釈書である魏の 武帝注『孫子』は十三篇であり、この十三篇が闔廬の見た十三篇と同じものであるのかどうかということが問題になってくるが、それは多くの方が研究しており、複雑に過ぎて私の及ぶ所ではない。唯一つ押さえておかなければならないことは、現在に伝えられている古書のほとんどは、その書の全てが著者あるいはその時代に書かれたものでなく、後世の補作が混じっていることが多いということである。だが歴史研究の史料にするわけではなく、その思想を読み取ることが目的なのだから、その事を念頭に置いて、読み解いていけばよい。

三『孫子』の注釈書

注釈書の最も古いのは、すでに述べたように魏の武帝の注である。次いで宋になると吉天保が『十家孫子會注』を著している。更に宋の元豊年間(1078年~1085年)には武学を志す者が学ぶべき書として七書を定めた。それは冒頭で述べた七書である。これより、『孫子』単独に注するよりも、『七書』に注した書が多く表れた。中でも明の時代の劉寅による『七書直解』が最も有名であり、その他多くの注釈書がある。我が国においても多くの国学者が注釈を試みているが、現存のもので最も古いの林羅山の『孫呉摘語』、『孫子諺解』、『孫子抄』であり、有名な所では、山鹿素行の『孫子諺義』・『七書要証』、荻生徂徠の『孫子國字解』などがある。参考書などによれば、さらに中国・日本の多くの注釈書が紹介されているが、ここでは取り上げない。
今回解読の定本は、服部宇之吉氏による吉天保の『十家孫子會注』に基づいた注釈書であり、富山房刊行の漢文大系に収められている。