四十八節
藤の定公が亡くなった時、太子は教育係の然友に言った、
「以前、私は宋の国で孟子と語り合ったことがある。その時の先生の言葉が忘れられない。このたび不幸にして父の喪に遭遇したが、私はお前を孟子の所に使わせて、大喪について尋ねさせ、それを聞いてから喪のことを行いたいと思っている。」
然友は孟子の居る鄒に行き、尋ねた。孟子は言った、
「それは誠に善いお考えです。親の喪は当然自分の心を尽くすものです。孔子の弟子の曾子も、『親の生存中は、礼に従ってお仕えし、亡くなれば葬礼を尽くし、その後は礼に従ってお祭りをする。そうしてこそ孝と謂える。』と言われています。諸侯の礼は私もまだ学んでいませんが、以前にこんなことを聞いたことが有ります。三年の喪に服し、齊哀の喪服を着て、お粥のような粗末な食事をするというのは、上は天子から下は庶民に至るまで皆同じであり、その事は夏・殷・周の三代を通じて変わらない、と言うそうです。」
然友は戻り太子に報告をした。それを聞い太子は三年の喪を定めたが、一族の老臣や官僚たちが皆反対して言った、
「ご本家の魯の先代様がたにも三年の喪をなされた方はおられず、我が先代様にもそのような事をなされた方はおられません。それをあなたさまの代になって代えられるのは、よくない事でございます。更に古い記録にも、喪祭は先祖の定めに從うものだ、とございます。」
太子は、
「これはさるお方から聞いたことなのだ。」
と答えたが、自分でも自信が持てなかったので、然友に言った、
「私はこれまでに学問をせず、馬を乗り回したり剣を振り回したりばかりしてきたので、一族の老臣や官僚たちは、私では頼りないと思っている。これでは父上の喪儀という大事を首尾よく成し遂げることが出来ないのではと不安である。ご苦労だがもう一度孟先生に聞いてきてもらいたい。」
然友は再び鄒に行き孟子に尋ねた。孟子は言った。
「そうでしょう。しかし喪儀のことは他人に求めるべきものでなく、太子ご自身の心次第でございます。孔子は、『君主が亡くなれば、太子は政治を始め表向きの事は家老に任せ、自身は粥を啜り、哀しみの為に顔は黒ずみ、喪主の席について泣き叫べば、役人たちも哀しまない者はいないのは、先に太子が哀しむからだ。大体において上の者が好むことがあると、下の者はそれに輪をかけて甚だしくそれを好むものだ。たとえば上に立つ君子の徳は風みたいなもので、下々の者は草みたいなもので、草は風が吹けば必ず倒れるももだ。』と言っております。ですからこの度の事はひとえに太子のお心次第でございます。」
然友は戻って報告した。太子は、
「そのとおりだ。これは真に私の心次第だ。」
と言い、三年の喪を行うことを決め、もがりの五か月間を仮小屋で過ごし、政事に携わらなかった。これを見て役人や一族の者たちは太子の心を認め、太子は禮をよく知っておられると言うようになった。いよいよ本葬が行われることになると、四方からこれを見ようと人々が集まってきたが、太子の傷ましい顔つきを見、嘆き悲しむ泣き声を聞いて、会葬者は皆立派な葬式だと感動した。
滕定公薨。世子謂然友曰、昔者孟子嘗與我言於宋。於心終不忘。今也不幸至於大故。吾欲使子問於孟子、然後行事。然友之鄒問於孟子。孟子曰、不亦善乎。親喪固所自盡也。曾子曰、生事之以禮、死葬之以禮、祭之以禮。可謂孝矣。諸侯之禮、吾未之學也。雖然,吾嘗聞之矣。三年之喪、齊疏之服、飦粥之食、自天子達於庶人、三代共之。然友反命。定為三年之喪。父兄百官皆不欲、曰、吾宗國魯先君莫之行、吾先君亦莫之行也。至於子之身而反之、不可。且志曰、喪祭從先祖。曰、吾有所受之也。謂然友曰、吾他日未嘗學問。好馳馬試劍。今也父兄百官不我足也。恐其不能盡於大事。子為我問孟子。然友復之鄒問孟子。孟子曰、然。不可以他求者也。孔子曰、君薨、聽於冢宰。歠粥、面深墨、即位而哭、百官有司、莫敢不哀,先之也。上有好者,下必有甚焉者矣。君子之德、風也。小人之德、草也。草尚之風必偃。是在世子。然友反命。世子曰、然。是誠在我。五月居廬、未有命戒。百官族人可謂曰知。及至葬、四方來觀之。顏色之戚、哭泣之哀、弔者大悅。
滕の定公、薨ず。世子、然友に謂いて曰く、「昔者、孟子嘗て我と宋に於いて言えり。心に於いて終に忘れず。今や、不幸にして大故に至る。吾、子をして孟子に問わしめ、然る後に事を行わんと欲す。」然友、鄒に之き、孟子に問う。孟子曰く、「亦た善からずや。親の喪は固より自ら盡くす所なり。曾子曰く、『生けるには之に事うるに禮を以てし、死せるには之を葬むるに禮を以てし、之を祭るに禮を以てす。孝と謂う可し。』諸侯の禮は、吾未だ之を學ばざるなり。然りと雖も、吾嘗て之を聞けり。『三年の喪、齊疏の服、飦粥(セン・シュク)の食は、天子自り庶人に達し、三代之を共にす』。」然友、反命す。定めて三年の喪を為さんとす。父兄百官皆欲せずして曰く、「吾が宗國魯の先君、之を行う莫く、吾が先君も亦た之を行う莫きなり。子の身に至りて之に反するは、不可なり。且つ志に曰く、『喪祭は先祖に從う。』」曰く、「吾之を受くる所有るなり。」然友に謂いて曰く、「吾、他日、未だ嘗て學問せず。好んで馬を馳せ劍を試む。今や父兄百官、我を足れりとせざるなり。其の大事を盡くす能わざるを恐る。子、我が為に孟子に問え。」然友復た鄒に之き、孟子に問う。孟子曰く、「然り。以て他に求むる可からざる者なり。孔子曰く、『君薨ずれば、冢宰に聽き、粥を歠(すする)り、面は深墨、位に即きて哭すれば、百官有司、敢て哀しまざる莫きは、之に先んずればなり。上好む者有れば、下必ず焉より甚だしき者有り。君子の德は、風なり。小人の德は、草なり。草之に風を尚(くわえる)うれば必ず偃(ふす)す。』是れ世子に在り。」然友反命す。世子曰く、「然り。是れ誠に我に在り。」五月、廬に居り、未だ命戒有らず。百官族人、可とし謂いて知れりと曰う。葬るに至るに及び、四方來たりて之を觀る。顏色の戚める、哭泣の哀しめる、弔する者大いに悅ぶ。
<語釈>
○「然友」、趙注:然友は世子の傅なり。○「大故」、趙注:大故は大喪を謂う。○「曾子」、孔子の弟子で、孝の人として有名、著書に『孝經』がある。○「齊疏之服」、趙注:齊疏(シ・ソ)は齊哀(シ・サイ)なり。喪の期間は、三年・一年・九ヶ月・五ヶ月・三ヶ月とあり、喪服もそれに対応して五等に区別されている、それそれ喪服の名は、「斬衰」・「齊衰」・「大功」・「小功」・「緦麻」と言う。○「飦粥」、「飦」(セン)は濃いおかゆ、「粥」(しゅく)は薄いおかゆ、ここでは飦粥で粗末な食事の意。○「孔子曰~」、孔子の言葉がどこまでかはっきりしないが、「草尚之風必偃」までとするのが通説らしいので、それに従った。○「冢宰」、冢宰(チョウ・サイ)は家宰、家老のこと。○「五月居廬」、服部宇之吉氏云う、「居廬」とは、倚廬に居るを云う、倚廬は中門の中に於いて之を造る、父母の喪中に移り居る室なり、「五月」は五個月なり。
<解説>
内容的にはさほど難しい箇所はないが、儒教の言う三年の喪について、この節を読む限り、この当時厳密には行われていなかったようで、意外な感がある。礼とはそのような側面があるのだろう。
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