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『孟子』巻第八離婁章句下 百七節、百八節

2018-04-11 10:20:39 | 四書解読
百七節

弟子の徐子が尋ねた。
「孔子はしばしば水を称えて、『水なるかな、水なるかな。』と言われましたが、水の何を見てこのように言われたのでしょうか。」
孟子は言った。
「原泉から混混と、昼夜の別なく流れ出た水は、くぼみが有れば満たして進み、やがて四海に至る。このように本源の有るものは、すべて尽きることがない。孔子はこの点を取り上げて称賛しているのだ。かりにも水も本源が無ければ、七、八月に集中して雨が降って、田閒の溝を水で満たしたとしても、雨が止めば見る間に枯れてしまう。それと同じで、人も評判だけが先行して、その本源である実がともなわなければ、すぐに忘れられてしまう。だから君子はそのような評判を恥とするのである。」

徐子曰、仲尼亟稱於水曰、水哉、水哉。何取於水也。孟子曰、原泉混混、不舍晝夜。盈科而後進、放乎四海。有本者如是。是之取爾。苟為無本、七八月之閒雨集、溝澮皆盈、其涸也、可立而待也。故聲聞過情、君子恥之。

徐子曰く、「仲尼亟々(しばしば)水を稱して曰く、『水なるか、水なるかな。』何をか水に取れるや。」孟子曰く、「原泉混混として、晝夜を舎かず。科(あな)に盈ちて而る後に進み、四海に放る。本有る者は是の如し。是を之れ取るのみ。苟しくも本無しと為さば、七八月の閒、雨集まりて、溝澮皆盈つるも、其の涸るるや、立ちて待つ可きなり。故に聲聞、情に過ぐるは、君子之を恥づ。」

<解説>
実を伴わない評判には気を付けなければならない。特に今の時代、インターネットの情報に惑わされないように注意をすることが大切である。

百八節

孟子は言った。
「人間が禽獣と異なる所はほんのわずかである。それは仁義の有る無しに由るのだ。庶民はその価値が分からずに棄て去ってしまうが、君子はその大切さを理解して保ち続けるのだ。舜は物事の道理をよく明察し、人間関係の秩序を心得ていたので、心に存する仁義に基づいて物事を実行し、仁義そのものを実行するようなことはしなかった。」

孟子曰、人之所以異於禽獸者幾希。庶民去之、君子存之。舜明於庶物、察於人倫。由仁義行、非行仁義也。

孟子曰く、「人の禽獸に異なる所以の者は、幾ど希なり。庶民は之を去り、君子は之を存す。舜は庶物を明らかにし、人倫を察す。仁義に由りて行う、仁義を行うに非ざるなり。」

<解説>
「庶民去之、君子存之」の「之」は下文の仁義を指す。趙注に云う、衆民、義を去り、君子、義を存すと。「非行仁義也」の解釈は二つある。一つは仁義そのものを実行するのではないという意味、もう一つは外から仁義を取り入れて実行するのではないという意味。私は前説を採用した。

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