四十九節
藤の文公は孟子を招いて、國を治める道について尋ねた。孟子は答えた。
「民に関すること、特に農業については片時もゆるがせにしてはいけません。『詩経』にも、『日中は野にでかけて茅を刈り取り、日が暮れてからは縄をなえ。暇が出来たらすぐに屋根に登り、雨漏りの修理をせよ。百穀の種まきが近づいているぞ。』と歌っています。民の日常の実態とは、定まった仕事が有れば、心も安定しますが、定まった仕事がなければ、心も不安定になるものです。もし心が不安定な状態になれば、わがまま勝手にどんな悪事にも手を染めかねません。そのような状態に追い込んでおきながら、罪を犯せばこれに刑罰を加えるのは、網を仕掛けておいて民をそこに追い込むようなものです。いやしくも仁者が君主の位に在りながら、どうして民を追い込むようなことが出来ましょうか。ですから賢君は慎み深く下の者にも礼を尽くし、民から税を取るにも一定の限度がありました。昔、魯の陽虎は、『金持ちになろうとすれば、仁者ではいられない。仁者でいようとすれば、金持ちになれない。』と申しております。古来の税制を見てみますと、夏の時代には民に五十畝の土地を与えて、貢という税法を行い、殷の時代には七十畝を与えて、助という税法を行い、周の時代には百畝を与えて、徹という税法を行いました。それぞれ法は異なっておりますが、その実態は皆十分の一の税を賦すということでは同じです。徹とは収穫高に応じて徹取することで、助とは籍、乃ち借りることで、公田を耕す労力を民より借りてその収穫を徴収するのであります。昔の賢人龍子は、『土地の治め方としては、助法が最善で、貢が最悪である。』と申しております。貢というのは、数年の収穫を平均してそれを定額とするので、豊年の歳には穀物があたりに散乱しているほどなので、多少税が多くても民を虐げることにならないのに、少量の定額しか取らず、逆に凶年の歳には田畑に多くの肥料を与えても、収穫が足りないのに、定額の税は取り立てます。民の父母というべき君主になりながら、民をして休む暇もなく働き続けても、自分の父母さえ養うことが出来ないようにさせ、更に税を払えない者には貸し付けをして、利息を取り立てるから一層負担が増え、ついに老人や子供は溝や谷間に転がり落ちる羽目になる。これでどうして民の父母などと言えるでしょうか。さて、功徳のある家が俸禄を世襲するという周初以来の制度は、藤の国では勿論行われております。『詩経』小雅の大田の篇に、『雨よふれ、我が公田に、ついでに我が田にもふれ。』とありますが、公田というのは唯だ助法だけにあるのですから、この詩に因って考えてみますと、周の税制は徹法でありますが、助法も併用していたようです。ですので藤の国でもこの税制を行われるのがよろしいかと思います。その上で、郷に庠・序・校と呼ばれる学校を、都に學という学校を設けて民を教育するのです。この庠とは老人を敬い養う所で、校とは子弟を教育する所で、序とは弓を射る礼に基づいて礼儀を教える所で、庠・序・校とはそれぞれの意味合いからつけられた名称です。夏の時代は校と言い、殷の時代は序と言い、周の時代は庠と言いましたが、都の学校である學は夏・殷・周の三代を通じて同じ名称でした。これらは皆人間関係の正しい道である人倫を教える為の物です。上に立つ者が人倫を明らかにすれば、一般人民は互いに相親しむようになります。そのような美風が生まれたならば、天下を統一するような王者が現れたとしても、必ずその国を手本にしようとして見に来るに違いありません。そうなれば藤の国は王者の師ということになります。『詩経』大雅の文王の篇に、『周は古い国であるが、王者たる天命を受けたのは新しい。』とありますが、これは文王のことを言っているのです。あなたさまも努力して人倫を明らかにするようになされば、藤の国の面目を一新させることが出来ましょう。」
藤の文公はさっそく実行しようと思ったが、井田法の詳細が分からなかったので、臣下の畢戰を遣わして詳細を孟子に尋ねさせた。孟子は言った。
「あなたの主君は仁政を行おうとして、臣下の中からあなたを選んで私のもとへ遣わしました。どうか期待に添うように頑張ってください。そもそも仁政とは土地の境界を正しく定めることから始まります。境界が正しくなければ、井田の区画も大小が生じ、その収穫に因る俸禄も公平を欠くことになります。ですから暴君や堕落した役人は境界をごまかして利益を貪ろうとします。境界さえ正しく定められていれば、田を分配し俸禄を定めることは、座っていても行えるほど簡単の事です。藤は国土が狭いとは言え、治める立場の役人もあれば、治められる農民もあります。役人がいなければ、農民を治める事は出来ないし、農民がいなければ役人を養うことは出来ません。どちらも大切なものですから、郊外は九分の一の税率の助法により徴税し、城内は十分の一の税率として各自に納めさせるようになさるのがよろしいかと思います。又卿以下の官吏には祭祀用の圭田を与えねばなりません。それは五十畝とします。農民には家長以外で十六歳以上の未婚の弟子には二十五畝の土地を与えます。この法が行われるなら、農民は家長が死んだ時も、転居する時も、郷里を出て流民となることなく、郷里の田は皆井田制のもとで平等で、一井の八家の者は田に出かける時も、家に帰る時も、行動を共にして親しく付き合い、盗賊への警戒も協力し合い、病に罹れば助け合うので、民たちは自然と親しみ合うようになります。その井田制の区画法ですが、一里四方を一井とし、九百畝の土地を井の字の形に区画し、その真ん中を公田とし、その周囲を八家の者に百畝づつ与え、八家共同で公田を耕させ、その作業が終わってから、それぞれ自分の田を耕すようにさせます。これは治める者と治められる者との上下の区別を明らかにするためです。以上が井田法の大略ですが、これを潤色して実情に合わせて行えるかどうかは、あなたの主君とあなた次第とでございます。」
滕文公問為國。孟子曰、民事不可緩也。詩云、晝爾于茅、宵爾索綯。亟其乘屋。其始播百穀。民之為道也、有恆產者有恆心、無恆產者無恆心。苟無恆心、放辟邪侈、無不為已。及陷乎罪、然後從而刑之。是罔民也。焉有仁人在位、罔民而可為也。是故賢君必恭儉禮下、取於民有制。陽虎曰、為富不仁矣、為仁不富矣。
夏后氏五十而貢、殷人七十而助、周人百畝而徹。其實皆什一也。徹者、徹也。助者、藉也。龍子曰、治地莫善於助、莫不善於貢。貢者校數歲之中以為常。樂歲、粒米狼戻、多取之而不為虐、則寡取之。凶年、糞其田而不足、則必取盈焉。為民父母、使民盻盻然,將終歲勤動、不得以養其父母。又稱貸而益之、使老稚轉乎溝壑。惡在其為民父母也。夫世祿、滕固行之矣。詩云、雨我公田,遂及我私。惟助為有公田。由此觀之、雖周亦助也。設為庠序學校以教之。庠者、養也。校者、教也。序者、射也。夏曰校、殷曰序、周曰庠、學則三代共之。皆所以明人倫也。人倫明於上、小民親於下。有王者起、必來取法。是為王者師也。詩云、周雖舊邦、其命惟新。文王之謂也。子力行之、亦以新子之國。使畢戰問井地。孟子曰、子之君將行仁政、選擇而使子。子必勉之。夫仁政、必自經界始。經界不正、井地不鈞、穀祿不平。是故暴君汙吏必慢其經界。經界既正、分田制祿可坐而定也。夫滕壤地褊小、將為君子焉、將為野人焉。無君子莫治野人、無野人莫養君子。請野九一而助、國中什一使自賦。卿以下必有圭田。圭田五十畝。餘夫二十五畝。死徙無出鄉、鄉田同井、出入相友、守望相助、疾病相扶持、則百姓親睦。方里而井。井九百畝、其中為公田。八家皆私百畝、同養公田。公事畢、然後敢治私事。所以別野人也。此其大略也。若夫潤澤之、則在君與子矣。
滕の文公、國を為むるを問う。孟子曰く、「民事は緩うす可からざるなり。詩に云う、『晝は爾于きて茅かれ、宵は爾索を綯え。亟かに其れ屋に乘れ。其れ始めて百穀を播せん。』民の道為るや、恆產有る者は恆心有り。恆產無き者は恆心無し。苟くも恆心無ければ、放辟邪侈、為さざる無きのみ。罪に陥いるに及んで、然る後從って之を刑す。是れ民を罔するなり。焉くんぞ仁人位に在る有って、民を罔して為す可けんや。是の故に賢君は必ず恭儉にして下に禮し、民を取るに制有り。陽虎曰く、『富を為せば仁ならず、仁を為せば富まず。』夏后氏は五十にして貢し、殷人は七十にして助し、周人は百畝にして徹す。其の實は皆什の一なり。徹とは、徹なり。助とは、藉なり。龍子曰く、『地を治むるは助より善きは莫く、貢より善からざるは莫し。』貢とは、數歲の中を校して以て常と為す。樂歲には、粒米狼戻し、多く之を取るも虐と為さざるに、則ち寡く之を取る。凶年には、其の田に糞するも足らざるに、則ち必ず取り盈たす。民の父母と為りて、民をして盻盻然として、將た終歲勤動するも、以て其の父母を養うを得ざらしむ。又貸を稱して之を益し、老稚をして溝壑に轉ずぜしむ。惡くんぞ其の民の父母為るに在らんや。夫れ祿を世々にするは、滕固より之を行えり。詩に云う、『我が公田に雨ふり、遂に我が私に及べ。』惟だ助のみ公田有りと為す。此に由り之を觀れば、周と雖も亦た助するなり。庠序學校を設け為して、以て之を教う。庠とは、養なり。校とは、教なり。序とは、射なり。夏は校と曰い、殷は序と曰い、周は庠と曰う。學は則ち三代之を共にす。皆人倫を明らかにする所以なり。人倫上に明らかにして、小民下に親しむ。王者起こる有らば、必ず來たりて法を取らん。是れ王者の師と為るなり。詩に云う、『周は舊邦と雖も、其の命は惟れ新たなり。』文王の謂なり。子力めて之を行わば、亦た以て子の國を新たにせん。」畢戰をして井地を問わしむ。孟子曰く、「子の之、君將に仁政を行わんとし、選擇して子を使しむ。子必ず之を勉めよ。夫れ仁政は、必ず經界自り始む。經界正しからざれば、井地鈞しからず、穀祿平らかならず。是の故に暴君汙吏は必ず慢其の經界を慢にす。經界既に正しければ、田を分かち祿を制すること、坐して定む可きなり。夫れ滕は壤地褊小なれども、將た君子為り、將た野人為り。君子無くんば野人を治むる莫く、野人無くんば君を養う莫し。請う野は九が一にして助し、國中は什が一にして自ら賦せしめんことを。卿以下には必ず圭田有り。圭田は五十畝。餘夫は二十五畝。死徙、鄉を出づる無く、鄉田、井を同じくし、出入相友とし、守望相助け、疾病相扶持せば、則ち百姓親睦せん。方は里にして井す。井は九百畝、其の中公田為り。八家皆百畝を私し、同じく公田を養う。公事畢りて、然る後敢て私事を治む。野人を別つ所以なり。此れ其の大略なり。夫れ之を潤澤する若きは、則ち君と子とに在り。」
<語釈>
○「詩」、『詩経』豳風七月篇。○「索綯」、「索」は縄、「綯」は“なう”と訓じ、縄をなう意。○「放辟邪侈」、「放辟」は、わがまま、「邪侈」は、よこしまでおごる。○「徹」「籍」、趙注:徹は猶ほ人の物を徹取するがごとし、籍は借なり、猶ほ人相力を借して之を助けるがごとし。「徹」は収穫高に応じて徹取することで、「籍」は民の力を借りて公田を耕して、その収穫物に因り王族の生活を助けてもらうこと。○「盻盻然」、趙注:「盻盻然」(ケイ・ケイ・ゼン)は、勤め苦しんで休息せざるの貌。○「庠序學校」、朱注:「庠」は老を養うを以て義と為し、「校」は民を教うるを以て義と為し、「序」は射を習うを以て義と為す、皆郷の學(学校)なり、學は國の學なり。異説もあるが、朱注に従っておく。○「取法」、法は紀、手本とする意。○「為君子」、趙注:「為」は「有」なり、小國と雖も、亦た君子有り、亦た野人有り。○「圭田」、趙注:古者は、卿以下士にに至るまで、皆圭田五十畝を受く、祭祀に共する所以なり。○「餘夫」、服部宇之吉氏云う、餘夫とは、井田の制に、一家の従属、即ち弟子をいう、其の法、十六才にして二十五畝を受け、三十歳にして娶らば百畝に増す。○「守望」、盗賊や外賊にたいする備えをすること。
<解説>
この節は井田制について述べられた有名な節である。周代の税制や井田制に関する論文などで、よく引用される文章である。そこで井田制とはどのようなものか簡単に紹介しておく。九百畝の土地を「井」の字の形に九等分し、周囲の八区画を八家に分与する。一区画は百畝である。中央の百畝を公田として八家の者が耕作し、此の収穫物が税となる。故にこれを九分の一法とも言う。このような井田制が当時実際に実施されていたかどうかは定かでない。この問題に関しては、多くの論文が有り、諸説さまざまである。唯一つ確かな事は、画一的な実施はなかったということであろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます