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部落問題研究所 「部落の生活史」
1988年2月1日初版
この本を最初に借りたのは2008年の初夏だったか、それから何度も借り直し読み終えたのが2008年の11月。
本の構成は「中世篇 11編」「近世篇 37編」。中世篇は3名、近世篇は21名で書き上げた共著になっている。内容は元とした資料にある「一行」のエピソードからイメージを広げた読み物になっていたり、テーマを決めての考察だったりと色々である。
最初にこの本を手にしたときは、もっと別の内容を想像していた。何しろ題名からして「部落」、編纂が部落問題研究所。これでもかこれでもかと差別意識を植え付けるような内容になっているのだろうな、と思っていた。それもあって別のとっつきやすい本の方を片付けながら、一編ずつ読んでいたのだが、読み終えてみると最初の思いは杞憂で、なかなか良くできた本でした。
最近の学校の教科書からは「士・農・工・商・穢多・非人」という言葉が消えてきているのだが、その理由はその言葉が不適切というようなマスコミの自主検閲のようなものではなく、単純に学者の研究結果からその区別・差別自体が怪しくなり、歴史認識が変化したから「士・農・工・商・穢多・非人」という言葉を教科書で使わなくなったらしい。
この本は今(2008年)から20年前のものだが、読んでみると当時の学者の研究結果がなんとなくわかる。はっきりとは書いていないのだが、どれも穢多・非人という存在は肯定しながらも差別は強調していない。「社会のの外」の人々ということ自体も、否定されている。
もう絶版のようでamazonでは中古扱いになります。
(2008年11月 神戸西図書館)
以下、メモ。
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◆P33 中世賎民の或る裁判沙汰(三浦圭一 立命館大学)
裁判機関がどこにあったにせよ、中世賎民が親しい間柄であっても、堂々とその正邪を決する裁判闘争を展開しているということ、そしてこの訴状・陳述が認められている以上、その裁判を受理し、審査する場が存在したことを暗示するものである。このようなことが、中世賎民集団が「社会外の社会」を構成していたという、中世賎民研究のなかの一つの見解に対して、私がどうしても納得がいかないことの理由である。
◆P60 弾左衛門と江戸城の大太鼓(成沢栄寿 部落問題研究所)
賎民に対する弾左衛門の支配権が確立したのは、十七世紀半ばごろであろう。しかし、その後、たとえば車善七との支配をめぐる争論はつづき、享保六(1721)年に善七が敗訴。江戸非人頭が穢多頭の配下におかれることが確定し、一応の決着をみた。そうした弾の支配権確立と並行して、芸能者の脱賎民化が進行した。すなわち、寛文七(1667)年、金剛太夫が弾左衛門に断わりなく江戸で勧進能を催し、騒動になり、老中の裁決で弾が勝利し、その興行権が再確認されたものが、およそ四十年ののち宝永五(1708)年、操師小林新助が弾左衛門に無断で上演し、弾が敗訴。「歌舞伎・狂言之輩、穢多の配下ならびに非人の類に之無」きこととなったというのは、その事情を示している。
斃牛馬処理の権利は、小頭をはじめとする各地の相対的に有力な穢多が所有していた。しかし、その権利は質入れ、売却によって移動し、これを取得する者と売却して没落する者とがあった。そして、まだ全面的にあきらかになったと言えないが、関東では斃牛馬の解体には非人が使役され、穢多は直接手をくださないことになっていた。このような関東の特徴は警察・刑場関係の人足の場合にも言える。たとえば、処刑の際、弾左衛門の命令のもと、浅草新町の穢多や車善七、松右衛門配下の非人が小伝馬町や浅草北方の小塚原、品川の鈴ヶ森の刑場へ駆出されたが、穢多頭や非人頭または彼らの手代の指図で磔・人罪の執行、斬首の受刑人介添えなど、きわめて残酷な任務につかされ、処刑の準備やあと始末をやらされたのは専ら非人であった。江戸の非人小屋に収容された非人は非人頭から鑑札を与えられ市中での勧進を許されたが、その反面、穢多の下働きともいえる賦役に従事させられたのである。(世事見聞録)
◆P79 道場持ちの穢多(木下浩 新潟県部落史研究会)
越後高田藩高田城下 高田穢多町
二百軒中十軒の役人あり
役人のなかの二軒が道場持ち
高田藩家中でも指南をうけた
◆P119 「部落」と神社(間瀬久美子 私立高校教諭)
一般的に江戸時代には部落には神社がなく、封建的村落共同体の氏子祭礼から排除されていたと言われる。
部落の大部分が独立村ではなく本村の枝村として存在していることである。
◆P124 武州下和名村の祭礼興行(西木浩一 一橋大学)
文化九(1812)年九月二十三日
下和名はこの時期二十三軒百三十五人長吏が居住
彼らは三つの組を形成
各組毎に白山宮を鎮守守として祀っていた
この白山宮の祭礼興行をめぐって、下和名の人々との間に繰り広げられた人的交流
香具師・商人が祭礼興行の諸事方端引請、和名本村・近村が寄進を差出す
◆P129 泉州信太聖明神氏子一件(内田九州男 大阪城天守閣)
明治四(1871)年四月 新政府は各県に戸籍の調整を布達。壬申戸籍。
戸籍雛形のうち、平民・穢多・来往並奉公人仮籍の部には、戸主の肩書に「何社氏子」とその氏神を記載するよう指示されていた。
堺県下和泉国信太郷 信太聖神社の氏子
一般村七か村
皮多村南王子村(この村は枝村ではない 庄屋、宗門人別帳)
この皮多村南王子村を壬申戸籍の調整の際、信太聖神社の氏子から排除する動きがあった
◆P187 非人世界の悪人と善人(内田九州男 大阪城天守閣)
大阪町奉行与力 大塩平八郎の三大功績の一つに奸吏糾弾一件というのがある
文政十(1827)年、一名の与力が奸吏として処断され、結託していた非人長吏も粛清された
与力 西町奉行所 弓削新右衛門
長吏 天満の作兵衛
鳶田の久右衛門
千日の吉五郎
大塩引退後の与力、内山彦次郎
この内山と結んでいた長吏善吉は「内にては、一万石の御大名も及ばぬ暮らし向き、普請立端に馬を飼い、下男下女絹服着るは云うも更也」
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◆P33の中世賎民の或る裁判沙汰には、中世の賎民が「社会外の社会」を構成していたという研究への疑問がはっきりと書かれている。
◆P60の弾左衛門と江戸城の大太鼓には、江戸の穢多が持つ利権が、訴訟という公的な手続きを経て他へ移っていくことを書くと共に、非人を搾取する江戸の穢多についても書かれている。
◆P79の道場持ちの穢多では、穢多の道場に藩士が通い指南をうけたことから、身分差別自体に疑問を投げている。
◆P119の「部落」と神社では、「一般的に」ということわりを入れながら、主村と枝村の関係を書いている。(私は、この「一般的に」ということわり自体が、一般的ではないような気がしている。)
◆P124の武州下和名村の祭礼興行では、穢多の村で行われる祭礼興行が資金難におちいり、興行が危ぶまれたとき、その興行を楽しみにしていた周りの農村や町の人々が、手助けする様子が書いてある。
◆P129の泉州信太聖明神氏子一件には、明治四(1871)年四月の壬申戸籍にともない、氏子から排除されかけた皮多村南王子村が、村役人の才覚で、排除しようとする勢力に取り込まれた県知事と対決しながら、無事に事を収めた件が書かれている。
◆P187の非人世界の悪人と善人には、奉行所与力と結んで利をあげ贅をつくす穢多について書かれている。
参考:「士農工商という用語が消えた謎」(http://ikeuchild.hp.infoseek.co.jp/sinokosho.html)このページは今(2008年)から6年前に書かれたもののようだが、より詳しく教科書の記述が変わってきた経緯を書いているので参考までに紹介しておく。